張大千の画業が新たな高みに達したのは、目の疾患とも関わりがあります。張大千は1954年にブラジルのサンパウロ市に移住しました。敷地内に中国式の庭園「八徳園」を建造中、庭石を運んでいる最中に、不注意から目の毛細血管が破裂するケガをしてしまいました。1957年あたりから目の病状が悪化するにつれ、早年の作品のように緻密な絵を描くことができなくなってしまったのです。新境地に達したもう一つの理由は、1956年にパリで個展を開催した際、ピカソ(Pablo Picasso,1881-1973)に会えたことです。西洋の現代画壇の趨勢を目の当たりにした張大千は啓発を受け、画風に大きな変化が生じました。溌墨と溌彩、半皴半溌など、半ば自動的に描ける技法を創出して、自身の画芸が新たな高みに到達したのみならず、それまでなかった境地を中国絵画に取り入れるなど、画壇に絶大な影響を与えました。こちらのコーナーでは、晩期における発展の軌跡をご覧いただきます。「大千狂塗冊」(国立歴史博物館蔵)など、張大千がパリ滞在中に制作した三組の冊頁は、張大千が新しい風格に向かった重要な転換期を示す作品です。張群に贈った「山高水長」は、すでに熟達の域にあった溌彩を自在に用いた佳作です。