張大千は幼少の頃から母の張曽益と兄の張善孖から手ほどきを受けて書画を学び始めました。その後、海上派の名家である曽熙と李瑞清に師事して詩文や書画を学び、確固とした基礎を固めました。張家の次男善孖の助力により上海の美術界で注目を集め、優れた新進画家として認められ、その多彩な芸術人生が幕を開けたのです。高名な書画家らと交流し、互いに切磋琢磨する中で、芸術上の風格や審美眼が磨かれると同時に、個人的な名声も瞬く間に高まりました。張大千は生涯を通して家族と睦まじく暮らし、師や諸先輩からも大切にされ、親しい友人らとも競い合いつつ助け合いました。こうした人間関係も張大千が歩んだ創作の道に欠くことのできない役割を果たしました。こちらのコーナーでは、張曽益「耄耋図」や張善孖「草沢巨虎」、曽熙「眉寿無疆」、李瑞清「無量寿仏」などの書画のほか、張大千「萱花」と関連のある尺牘も合わせて展示します。親族と師、友人らの張大千への影響と、張大千の彼らへの思いを具体的かつ詳細にご覧いただきます。
民国 張曽益 耄耋図
- 形式:軸
- サイズ:70.6x37.4 cm
「耄耋図」は張大千の母─曽友貞(1861-1936)の稀少な伝世作品である。用筆、着色ともに精妙の域に達している。傅増湘(1872-1949)は、黄筌(903-965)と徐熙(886-975)を融合させた作品としてこの絵を尊び、その精神までもが生き生きと描写されており、張兄弟の画芸は母親の啓蒙に基づくものだと指摘している。1982年に李葉霜が張大千にこの「耄耋図」の写真を見せて鑑識を依頼したところ、張大千は写真を見た途端に涙を流し、人づてに諸処へ問い合わせ、この絵を探したという。翌年、沈葦窓(1918-1995)が香港で本作を入手したが、残念なことに張大千はその少し前に世を去っていたため、張大千が望んだ通り、摩耶精舎の中に掛けられることとなった。
民国 李瑞清 無量寿仏
- 形式:軸
- サイズ:105x53 cm
1919年、当時21歳だった張大千は日本から上海に戻り、李瑞清、曽熙の二人と親交を深めた。また、婚約者の謝舜華が若くして世を去ったことを悲しみ、出家して法名を大千としたが、三ヵ月後に還俗した。李瑞清によれば、張大千は李瑞清の絵を非常に好み、紙くずの中から絵を見つけてきては表装していたので、「龍門造像記」の臨書に仏像を合わせた作品を張大千に贈ったという。その翌年、李瑞清は病死したため、大千はこの絵を特に大切にしていた。画中には、赤い衣をまとった仏や、重なり連なる怪石、幹の曲がった老木などが奇妙に歪んだ形で描いてあり、款題の書風に呼応している。