絵図の持つ強い叙述性
「物語」の図像は多種多様な素材を用い、様々な形式で作品として表現されています。その「物語」を表現するために制作された図像もあります。墓室や祠堂にある忠孝節義を表現した石刻線画、敦煌壁画の本生譚、『法華経』の標題紙に見える経変故事などが例として挙げられます。もともとは「物語」の絵図ではなかったものもあります。例えば、『孝経』や『詩経』などの思想や文学経典の挿絵がそれで、絵図の持つ強い叙述性が文章を超える物語性を感じさせてくれます。
- 漢 武氏祠画像石刻拓片
- 紙本墨拓 横披
- 本幅 縦115.2 横139.2cm
- 購拓000037-3
西暦151年に建立された武梁祠は、一見すると影絵のような石刻線画で全体が装飾されている。今回は西壁の拓片を展示する。中間の2層には「親を喜ばせる老萊子」、「荊軻秦王を刺す」など、七つの忠孝節義の故事が刻されている。
作者は背中合わせに描いた人物の近くに題名を添え、同じ箇所にある線画でも何の故事なのか識別できるようにしている。人物の動作の多くが誇張されているが、細部まで表現されている。例えば、第3層左側の「荊軻秦王を刺す」は荊軻(?-紀元前227)の五指や、秦王(紀元前259-紀元前210)の侍衛がどのように荊軻を阻止しようとしたのか、故事には記されていない詳細まで細い線で描写されている。
- 傳 宋高宗書孝經馬和之繪圖(開宗明義章、事君章)
- 絹本着色 冊
- 本幅 縦28.8 横33.7cm、縦29.1 横36.2cm
- 故畫001224-1、故畫001224-15
- 重要古物
『孝経』には孔子(紀元前551-紀元前479)が説いた孝道の内容が記録されている。第一開は弟子たちに囲まれた孔子が榻(長椅子形の寝台)に座って身体を傾けており、その前に曽子(紀元前505-紀元前432)が跪いている。仏教経典の扉絵の説法場面を逆向きにして簡素化した儒家版である。
第十五開「事君」は君主のいる宮殿と官員のいる庭が1本の柳の木で隔てられている。画面全体から見ると、ほぼ等しい割合で描かれているが、実際にはこれほど近距離であるはずもなく、文中の対句「進思盡忠、退思補過」を絵図で表現したのだろう。
本冊と南宋院画家の馬和之(活動期間:1127-1290)の画風は異なることから、宋人の名を借りた作品と考えられる。
- 清 弘暦敕編 御筆詩経図(斉風之甫田、豳風之7月)
- 紙本 冊頁
- 清乾隆間図絵写本
- 書型 縦30.9 横39.7cm
- 故殿019742、故殿030553
- 重要古物
中国最古の詩歌集である『詩経』には西周から春秋中期(紀元前11世紀-紀元前6世紀頃)の詩歌305篇が収録されている。その多くは物に託した暗喩で、隠微な表現に作者の考えや思いが秘められている。南宋の文官馬和之(活動期間:1127-1290)は画芸に優れ、馬和之が『詩経』に添えた絵は古典的名作とされる。清代の乾隆帝(1711-1799)は宮中にある馬和之の『詩経図』を臨模し、欠けている箇所も補うようにと宮廷画家に命じた。今回は乾隆朝で制作された模写作品のうち2点を展示する。
「甫田」は愚痴をこぼしているかのような詩句だが、作者の思いや思い人と共に過ごせることへの期待に満ちている。詩句中の「思い」はどのように表現すべきだろうか。画中に描かれた坂道は険しい道のりを暗示しており、遠方の友人への思いが表現されている。この絵は叙事画の形式で詩歌の内容と作家の心情を巧みに伝えている。
「七月」はかなり長文の詩で、農民が一年にやるべき主な作業内容や行事が記されている。小さな方形の冊頁にどれほどの内容を収録できるだろうか。作者は大胆にも雲霧と樹石で画面を三つに分割し、夜空に瞬く星、畑を耕し桑の枝を刈る、農作業に勤しむ農民たち、年末の宴会の場面が右から左へと順に描かれている。この絵は詩文の内容に沿ったものではないことが宴会の場面から知れる。作者は「七月」には記されていない、人々が音楽に合わせて踊る様子を画面左下の目立つ箇所にはっきりと描いているが、これは礼楽による教化を示しているように思える。
- 明 朱見濡敕編 御製新集断易精粋
- 紙本 冊頁装
- 明成化間内府彩絵写本
- 書型 縦14.6 横17.2cm
- 故善002842、故善002851、故善002866、故善002838、故善002841
- 重要文物
『御製新集断易精粋』は成化18年(1482)に編纂された、55冊のみ現存する占卜書で、千首を超える占卜詩文と附図が収録されている。
本書の絵図は詩句を「直訳」したものが非常に多い。例えば、「攀龍附鳳前」(意味:権勢のある人に取り入って出世しようとすること)には龍の尾を掴み、鳳凰を撫でる人物が描かれている。「翻訳」したものもある。「更逢寅卯地」には、虎と兎が一緒に歩いていく様子が描いてあり、地支を十二支の動物の姿に換えている。
詩句の意味は曖昧でわかりにくいが、画家の解釈を通して、目の眩むような幻想的な物語に変わり、ドラマティックな絵図が多数収録されている。
- 傳 宋 李嵩 瑞應圖
- 絹本着色 卷
- 本幅 第1段 縦32.6 横96.5cm
- 第2段 縦32.6 横106.5cm
- 第3段 縦32.6 横65.5cm
- 第4段 縦32.6 横130cm
- 故畫001472
「故事画」は「故実画」とも言われる。その絵は単なる架空の物語ではなく、多くは実際に発生した出来事に触れようとしている。だが、そこにはどれほどの真実が含まれているのだろうか。
伝李嵩(活動期間:1190-1264)の「瑞応図」は、そのようなタイプの味わい豊かな絵図である。南宋初年に高宗(1107-1187)の統治権の合理化を図るため、即位前の瑞応故事が大臣によりまとめられ、院画家もそれに合わせて作画した。今回展示する「脱袍見夢」がそれで、軍隊の天幕の中で熟睡する高宗だけでなく、高宗の夢の中で欽宗(1100-1156)が衣服を脱いで高宗に渡そうとする場面も描かれており、雲か霞のようにふわりとした表現がおもしろい。
故事について─脱袍見夢
靖康元年(1126)、宋欽宗は弟の趙構を大元帥に任命しました。その後、金軍が南下して北宋は滅亡。徽宗と欽宗が金人の捕虜として北方に連行されると、趙構が南京で即位し、南宋の第一代皇帝となりました。「脱袍見夢」(衣服を脱ぐ夢)の故事はこの政権交代の時期に発生したものです。大元帥となった趙構が各地の戦場を駆け巡っていたある日、自分と兄の欽宗が宮中の庭園で出会う夢を見ました。その夢の中で欽宗は自分の衣服を脱いで趙構に着せたのです。それには政権と王位を趙構に譲るという象徴的な意味がありました。趙構がやんわり断ろうとしたその時、夢から醒めました。この話を聞いた大臣の曹勛は、趙構は勇ましく軍隊を率い、天命によりこの国を再び栄えさせるだろうと、趙構を称揚する文を書きました。