傅狷夫は書法の名家に生まれました。篆書に優れていた父の傅御(字は守型)の影響で書画に興味を抱くようになりました。長男の傅励生(1946-)も篆刻を好み、夫人の席徳芳も梅画を得意とする画家です。毎年、大晦日に二人は必ず合作するなど、風雅を好んだ家風がうかがえます。師である王仁治(字は潜廔)は清代の拔貢(清代の人材選抜制度)で、書画ともに優れていました。その姿勢と学識は後に弟子を抱えるようになった傅狷夫に大きな影響を与えました。
傅狷夫の画室は創作の場であっただけでなく、友人と語らい、教え子を指導する場でもありました。重慶、上海時代には「耐煩室」呼ぶことが多く、来台以降は南港に居を構え、「心香室」または「有所不為齋」としばしば記しました。民国61年(1972)に復旦橋の近くに転居すると、その家を「復旦楼」と呼び、新店の小さな家は「納山楼」と呼びました。友人たちから贈られた多数の扁額を見ると、友人らに囲まれたにぎやかな様子が目に浮かぶようです。
早年の書画印の多くは父の手によるものですが、来台後に使用した印章は友人の王壮為や曽紹杰(1910-1988)、陶寿伯(1902-1997)、呉平らが制作したもので、教え子の作品も少なくありません。これらの書画印は台湾近半世紀における篆刻発展の縮図だとも言えます。こちらのコーナーでは、傅狷夫の家学や師承、交遊関係、印章など、多方面から展示を行い、古典を継承しつつ芸壇の発展を導いた傅狷夫の絶大な影響力を作品を通してご覧いただきます。