傅狷夫の書画芸術は杭州在住の頃にその基礎が築かれました。17歳の時に西泠書画社に加入し、社長の王仁治に師事して山水画を専門に学びました。それと同時に、画冊を通して同時代の名家や古人の画風を幅広く渉猟したほか、梅画と指頭画も独学しました。1935年に南京へ赴いて画家として活動しました。この頃、傅狷夫は石涛の風格に強く魅了されていました。抗日戦争勃発後は従軍して湖北から湖南、広西、四川を巡り、その道すがら特色豊かな絶景の数々を目にしたことにより、身をもって「与其師人不如師造化」(前人の画を学ぶよりは実際の自然を師とした方がよい)の理を会得したのです。また、四川在住時には近代花鳥画の名家陳之仏(1896-1962)に師事し、大きく啓発されました。抗日戦争終結後は上海に移り、1949年に台湾に移住してからは二度と再び故国の土を踏むことはありませんでした。
来台前後の作品には画風変遷の軌跡が残されています。早年の風格は秀麗かつ鋭利な雰囲気があり、造形や構図に石涛(1642-1707)の趣が強く感じられます。傅狷夫は「二石」(石谿と石涛)に関する画論も抄写したことがあります。武漢では多数の指頭画を出展しましたが、その当時の作風は「悵望帰鴻」という作品からうかがえます。来台以降は単一視点からの描写を試みたほか、大陸の山河の風景を追憶した作品なども手がけました。染法がしだいに増加し、夢の中に存在する山河を描写したかのような作品からは、それ以降の風格の変遷とその傾向がうかがい知れます。