皇家ならではの設計と職人の工芸技術
康熙朝と雍正朝(1662-1735)で成し遂げた発展の軌跡を継承しつつ、乾隆朝(1736-1795)の琺瑯彩磁器はそれまでの様式が意図的に刷新されました。器形や紋様、伝世の経緯から見ると、「詩境と画意」、「新しい装飾模様」、「収納とコレクション」─三つの面から理解することができます。
1組目の「詩境と画意」では、雍正朝(1723-1735)から継承され、皇家だけに使用が許されていた様式の作品を展示します。碗や盤(皿)、瓶などには皇家の職人が筆を揮った、絵画のような模様が描かれています。どの作品にも前人の詩句が書いてあり、細緻な絵図と閒章の組み合わせになっています。前朝から受け継がれた作風も見られますが、細部は意図的に変更されています。それに対して、景徳鎮の陶工が手がけた洋彩磁器は皇帝の詩文が古典作品に取って代わり、詩文と絵が対応する形となっており、この時代ならではの風格が強く感じられます。2組目の「新しい装飾模様」では、乾隆朝で創出された新しい装飾模様をご覧いただきます。洋彩と琺瑯彩に共通する様式がある中で、それぞれが独自の発展を遂げているのが特色です。3組目の「収納とコレクション」では、現存する木製の収納箱から、乾隆帝(1736-1795)が行った清朝宮廷旧蔵品の点検及び整理のほか、18世紀に収納された洋彩と琺瑯彩磁器を分類整理した後、各作品に名前を与えて包装を行った、それらの出来事を当時に遡ってご紹介します。
新しい装飾模様
乾隆朝の琺瑯彩磁器の装飾模様は2種類に大別できます。一つは、「洋彩と琺瑯彩の相乗効果」の作品と同様、詩画が対応する構図によって、紋様に込めたイメージを伝えるものです。もう一つは絵画のような構図によって、様々な事柄の細部まで、精美な図案で表現したものです。では、展示作品を参考にしながら、乾隆朝オリジナルの新しい様式を見てみましょう。一つ目は人物画です。文人雅士や十八羅漢、中国と西洋の母子、西洋人女性など、はっきりとした顔立ちで、表情も生き生きと描かれており、その人物にまつわる物語が伝わってくるようです。二つ目は楼閣山水図です。雲を衝くほどに高く聳える宮殿は、自然に囲まれて過ごしたいと願う人々の思いを再現しているかのようです。三つ目は錦地紋です。絵図であれ、錐刻であれ、複雑緻密な模様で錦上添花のイメージが表現されています。
磁繍花
琺瑯彩料で描かれた絵画のような装飾紋様とは違い、この赤と青の碗には単色の釉料しか使われておらず、不要な彩料を少しずつ削り落として、赤と青の地に白描の図案が描き出されています。細密精緻な彫刻による錦地紋と同様の技術とみなすこともできるかもしれませんが、この碗の模様はやや簡略化された表現になっています。驚くのは、17世紀後半のイスラム陶磁にも類似の技法を用いた紋様が見られる点です。両者の実質的な交流の有無にかかわらず、釉彩を削り落とす技法は、民国初頭の職人の目には織物の繍花(刺繍による模様)のような質感に映ったため、このような作品を「紅地繍花」、または「藍地繍花」と呼んだのです。
錦上添花
やや淡い色の地模様に主題の模様を組み合わせ、錦織りに刺繍で模様を入れたかのように、美しい花々で埋め尽くされた装飾模様を錦上添花と言います。公文書によれば、乾隆5、6年(1740、1741)頃、錦上添花はすでに琺瑯彩や洋彩磁器系統の作品によく見られる紋飾となっていたようです。基本的に洋彩磁器は錐画による鳳尾草(イノモトソウ科のシダ植物)の図案が非常に多く、琺瑯彩磁器は剔彩や筆描、貼絵などの変化が見られます。いずれにしても、可能な限り丹念かつ細緻に表現された、溢れんばかりの花々のイメージはこの時代特有の風格です。
キャンディーのような色
康熙朝(1662-1722)の彩絵琺瑯器の顔料は大半が西洋からの輸入品でした。雍正6年(1728)皇家作坊でついに顔料の精錬技術が確立されました。それ以降、顔料の入手に困ることもなくなり、皇家作坊の職人たちも新製品の清国製顔料を、景徳鎮御窯廠と分け合って使いました。また、督陶官の説明を読むと、新しい顔料が加わったことにより、乾隆朝(1736-1795)での顔料調合方法にも大きな変化が生じたことがわかります。普通の水はもちろん、膠水でも、油性の媒体でも調色ができるようになったのです。更にはその中からキャンディーのような色合いの顔料も生まれました。こちらの展示作品に見られる鮮やかな黄色や若草色、赤紫色、桃色、浅緑色などは、いずれも乾隆朝で新しく作られた色です。
色鮮やかな磁器の相乗効果
18世紀に生産された洋彩と琺瑯彩─この2種類の彩磁は、絵模様が入れられた地点が宮廷内と宮廷外という違いはありますが、ほぼ同時期に制作され、装飾の主題も共通していました。注目に値するのは、御窯廠督陶官唐英(1682-1756)の観点から見ると、唐英が手がけた洋彩磁器は全て、琺瑯彩磁器の模倣を目標としていたことです。また、紫禁城の皇帝の視点から言えば、自ら命じて制作させた磁器を収納する際、皇帝はこの2種類の彩磁を同種のものとみなし、同じ宮殿に収蔵していました。そのため、一つの官窯という概念の下、乾隆朝(1736-1795)で作られた洋彩と琺瑯彩は、2種類の彩磁が織り成す相乗効果が生じていました。
洋花・洋彩
乾隆2年(1737)、新しく作られた磁器が宮廷にまとめて届けられました。それには青花や霽紅、青磁、嬌黄など、様々な釉彩の器が含まれていましたが、皇帝のお気に召したのは「洋彩黄地洋花宮碗」だけでした。その碗を斬新で美しいと思った皇帝はもっとたくさん作るようにと命じました。では、「洋彩洋花」とはどのような図案のことを指すのでしょうか。紋様と色合いから言えば、こちらに展示されている方瓶のように、黄釉の地に絡み合う蔓植物の枝葉と花々がびっしりと描かれた作品を指し、明るく鮮明な色調が前朝とは異なります。このような模様が「黄地洋花」です。乾隆帝はその後も乾隆4年(1739)、11年(1746)と12年(1747)に、追加で制作するようにと繰り返し求めていることから、洋花図案は乾隆朝の洋彩磁器を代表する作品とみなすことができます。
良質な洋彩器
督陶官唐英(1682-1756)の言によれば、御窯廠で生産された全ての洋彩磁器は琺瑯彩磁器と同様の視覚効果を目標としていました。そのため、陶工が絵図を描く際も、可能な限り細部まで気を配るだけでなく、絵画のように叙事的であることが求められました。そうした試行錯誤を経て、乾隆7年(1742)、ついにその努力が認められたのです。当時、乾隆帝は洋彩磁器の収蔵を命じていましたが、「海鶴来朝胆瓶」2点を含む一部の作品は特別に「頭等」(一級品)に分類されました。官窯体制の下、洋彩と琺瑯彩が同等の作品と考えられていたことがわかります。
西洋の母子像
華やかで美しい西洋人女性像も乾隆年製琺瑯彩磁器の大きな特色です。小さな容器の蓋に描かれた牧羊中の女性像や、双耳瓶の母子図など、淡い色の顔料で明暗をつけ、人物の顔がより立体的に表現されており、表情もよくわかります。これらの図像が生まれた経緯について考えるならば、少なくとも二つの面から論じることができます。一つは、皇家作坊の職人たちは関連の画稿を参考にしたことがあったのかどうかです。二つ目は、康熙朝画琺瑯工芸の初期段階において、裸体の人物像が口伝えで広まらないようにしたという説があることですが、西洋人の母子像を比較してみると、乾隆朝の作品は様々な主題を幅広く取り入れた、作風の斬新さが際立っています。
金魚と水草
前朝を越えることが乾隆帝の願いだったのでしょう。そのため、官窯はもちろんのこと、その他の工芸品の制作でも、乾隆帝は機会さえあれば、乾隆朝独自の風格に変えようとしました。乾隆帝が即位した年の5月17日、乾隆帝は「鼻煙壺には隙間なく模様を描き込むように」と、唐突に求めました。それが間接的に乾隆朝琺瑯彩磁器の装飾模様の表現方法に影響を与えたのかもしれません。展示作品をご覧になればおわかりになるでしょう。磁器製碗の多くは、内側の底にも模様が描かれています。その中の一つが金魚紋です。2、3匹の金魚が水草の間をゆったりと泳ぐ様子は可愛らしく、見ているだけで癒されます。
洋彩と琺瑯彩の相乗効果
乾隆朝で制作された一連の彩磁器を、模様が描かれた地点で分類すると、皇家作坊と景徳鎮御窯廠の2種に分類できます。しかし、いずれの作品も官窯の範疇にあるため、その趣や性質が一致していなければなりませんでした。そうした制作環境の中、模様を描く職人による違いはあれど、ある一つの作品に洋彩と琺瑯彩の相乗効果から生じた、色とりどりの華やかな作風が同時に出現していた可能性も否定できません。この度、展示される羅漢瓶と花鳥瓶、博古花卉碟がその例として挙げられます。
課子図
母親と子供を主題とした絵図を「課子図」と言います。これもまた乾隆朝琺瑯彩磁器の特色ある紋様の一つです。展示作品に見える母と子は凹凸法で描かれており、その溌剌とした姿は一般的な人物画とは全く異なります。本のページを指差しながら朗読する子供や、筆で文字を書く母親、庭へ遊びに出てきた母子など、些細な出来事を丹念に描写することで、宮廷の日常生活が鮮やかに表現されています。