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雲南-ビルマの境界調査

光緒11年(1885)にイギリスがビルマに侵攻し、イギリスによる統治が始まると、イギリスは雲南とビルマの境界までその勢力を伸ばしました。清朝は曽紀沢、薛福成、龔照璦、李鴻章らを前後して派遣し、イギリスの官員と境界線に関する交渉にあたらせました。それに続けて「中英続議滇緬界務商務条約」と「中緬条約附款及専条」を締結し、境界線を画定しました。しかし、民国成立以降は雲南とビルマの境界線付近で絶えず紛糾が発生しています。

滇緬暹辺界図

滇緬暹辺界図

  1. 光緒年間
  2. 縦68.5cm 横57cm
この地図は清朝駐英大臣薛福成が英国の外交大臣ローズベリーと雲南-ビルマ地域の境界調査の協議を行った際、境界線画定法や現地の地形などを判断するために参考とした資料の一つで、絵図で清朝政府に説明したものである。左上に野人山地とチベットの境界地点及び「川蔵要口」があり、潞江沿いに南に向かうと西側に山吹色の点線が見え、「西蔵南界番地英尚未拠」や「紅点之線英人尚未測準」、「此界亦被侵入」などが書き込まれており、点線の末端に漢文と英文で「英人測量至此」(英国人の測量はここまで)と記されている。潞江東側のシャン族の地は英国人が根拠を示しているが、薛福成はこの地域の境界線は再調査すべきだとしている。また、図中の説明には、「緑色の箇所は野人山で、八募を除いて赤道24度以上は全てビルマに戻さず、現在英国と境界について協議している。」とあるが、図中の野人山地域は緑色に着色されてはいない。
中英緬甸条款

中英緬甸条款

  1. 締結日:光緒十二年六月二十三日
  2. 締結地点:北京
  3. 縦33cm 横20.5cm
清仏戦争後、イギリスはフランスの清国西南境界地域での勢力に対抗して、光緒11年(1885)にビルマ王が英国人材木商の密貿易を処罰したことを口実に出兵し、ティーボー王を捕虜にした。その翌年の元旦、清朝に外交文書を送付し、上ビルマはインドに併合されることとなった。光緒12年(1886)6月23日、總理衙門大臣奕劻とイギリスの前駐華公使オコナーが北京で「中英緬甸条款」五条に署名し、条約が締結された。この条約では次の事柄が取り決められた。(1)英国はビルマが10年に1度、清王朝に対してビルマの生産物を献上することを許可した。(2)清朝政府は英国がビルマで得たあらゆる権利を承認することとなった。(3)中英両国は清国とビルマの境界調査に人員を派遣するほか、境界関連の通商事務を定めた文書を作成することとなった。(4)英国はインドからチベットへの人員派遣を暫定的に見合わせることとに同意し、原則的にはチベット-インドの境界付近での通商が規定された。ここに至って、ビルマは完全に英国に掌握され、清朝とビルマの宗藩関係(宗主国と属国の関係)は名ばかりとなった。