:::

清代中期以前の西南部境界

フランスとイギリスがまだベトナムとミャンマーを掌握していなかった清代中期以前、清朝政府は両国を清国の属国と認識していました。「普天之下、莫非王土」(天下の土地は全て皇帝の領土である。)という観念の下、国家と国境の概念はかなり曖昧なものでした。それまで清朝政府はベトナム、ミャンマーとの国境線を正式に調査したことがなく、国境線に関する条約を締結したこともありませんでした。本院が所蔵する道光朝以前の関連史料や輿図(地図)の中にも中国とベトナム、ミャンマーとの国境線が精確に示されているものはありません。

雲南省地図

雲南省地図

  1. 絹本着色
  2. 縦60.5cm 横100.5cm
この地図の方位は上が北、下が南、左が西、右が東となっており、雲南とベトナム、ビルマの境界線は示されていない。右下に交山岡という関口があり、その北に開化府、東に「交趾界」という文字が記されている。これが雲南とベトナムの境界である。雲南とビルマの境界に関しては、明代の雲南境界の各長官司と土司所在地域が標記されている。本図にはビルマ国内の阿瓦城(Ava)、吉根城(Zikkam)、洞吾城(Toungoo)のほか、かつてビルマ王国の首都であった擺古(Bago、現在の勃固/バゴー)などの地名も見える。
手絵辺防図(手描きの辺防図)

手絵辺防図(手描きの辺防図)

  1. 紙本着色
  2. 縦29cm 横700cm
この絵図は巻軸型の地図で、本院が購入した際は破れてバラバラの状態だったが、整理して修復したところ、内容に不足があることがわかった。原図はおそらく広西の南寧、鎮安、太平三府に属する州と司、ベトナムとの境界地点に設けられた隘と卡も全て書き込まれていたと思われるが、この図には鎮安府に属する下雷土州と洞潤寨、帰順州に加えて、ベトナムとの境界に設置された隘と卡しか記されておらず、ほかの二府州や司、設置されていたはずの隘と卡も見当たらない。この図の方位は上が南、下が北、左が東、右が西となっており、山々の向こう側がベトナムである。当時、清朝は越境防止のために山頂と山頂の間に塀や壕、垣根などを築いていた。図中の境界となる山々の下方には各隘と卡が見え、それぞれに官兵とその地を警備する地元の人員の人数が記されている。各隘、卡と村落の間は道で結ばれており(赤い点線で標記)、ほかに塀と壕、垣根にも名称と長さ、幅、高さが記されている。全体に美しい着色画となっており、清代中期以前に中越境界防衛のために築かれた隘、卡を研究する上で重要な史料の一つである。