国境は異なる政権の地理的範囲を定めた境界線であり、国際問題が起こりやすい地域でもあります。中国とベトナム、中国とミャンマーの国境線は合わせて2400kmを超え、清代末期より衝突が絶えませんでした。台湾の外交部が本博物院に寄託した清代総理各国事務衙門、及び民国初期の北洋政府外務部の資料や地図には、清朝政府がフランスやイギリスと締結したベトナム、ビルマ(現ミャンマー)との境界条約、及び広東-ベトナム、広西-ベトナム、雲南-ベトナム、雲南-ビルマの境界線を定めた地図が数多く含まれています。これらの資料は境界の紛争問題に関わり、争議を起こしやすい敏感な内容のため機密扱いとされ、これまで公開されることはありませんでした。民国九〇年(2001)、外交部はこれらの資料を本院に寄託し、本院の図書文献処によるデジタル化が進められ、民国九十六年(2007)には外交部より機密解除の同意を得て、データベース化による一般公開と展覧の企画が可能になりました。これを受け、本院はこれらの史料をテーマにした「失われた領域─清季西北部国境線条約の変遷と地図特別展」「百年の伝承 活路を見出す-中華民国外交史料特別展」を民国九十九年(2010)と一〇〇年(2011)にそれぞれ開催し、国内外の観覧客より好評を博しました。

ベトナムはインドシナ半島の東部に位置し、北は広東、広西、雲南の三つの省と隣接しています。ミャンマーは同半島の西部にあり、国土は雲南省と2100kmにわたって接しています。清朝時代、ベトナムとビルマは中国の属国であったため、清朝はこれらと境界を定めることはせず、中国南西部の境界が曖昧になっていました。しかし、光緒年間の清仏戦争で結ばれた「天津条約」において、清朝とベトナムが宗主関係を断ったことから、境界画定の議論が持ち上がります。光緒十一年~二十二年(1885-1896)、清朝とフランスは協議を重ね、境界線を画定して碑を立て、十余種類もの境界に関する条約を取り交わしました。一方、イギリスは光緒十一年にビルマ北部に侵入し、三度にわたる英緬戦争を経てビルマを完全に制圧。同十二年(1886)、清朝はイギリスと「英清ビルマ条約」を締結し、雲南とビルマの境界画定について調査することを決定しました。同二十年(1894)、両国は再び清とビルマの国境をめぐる「中英続議滇緬界務商務条項」を結び、両地が接する中央区間と南区間の境界線がほぼ確定しました。しかし、雲南とビルマの国境問題は多く、民国になっても紛争は続きました。

  本特別展は「清代中期の南西部境界」「広西-ベトナム、広東-ベトナムの境界調査」「広西東西路の中国-ベトナム国境碑」「雲南-ベトナムの境界調査」「雲南-ビルマの境界調査」の五つのコーナーに分け、外交部が秘蔵してきた中国南西部の境界条約や地図のほか、本院が所蔵する清代南西部国境資料と地図を展示致します。本展覧で展示される文物はいずれも初公開となります。