鴻臚寺卿鄧承修とフランス側の境界調査団代表チャールズ・ディロン(Charles Dillon、生没年不詳)は硭街(Móng-cái)で広東の竹山(Tchŏu-chan / Trúc-son)から広西の各達村(Ko-ta-cheng)の中越国境線の調査記録にそれを承認する署名をし、4枚の絵図を作成しました。双方は図をもとに調査を行いましたが、署名された調査記録文書は境界線のためだけに作成されたものだったため簡略化されており、実際の地形または地勢と必ずしも一致するものではありません。境界を示す碑をどのように設置するかについては、両国間でかなりの論議がありました。光緒16年(1890)7月、フランスはフランディン(Hippolyte Frandin, 1852-1924)を境界碑設立を行う主義大臣として派遣しました。清朝は広西太平帰順道梧州知府の向万鑅に命じて広西東路─吞倉山(Thên-sang-shā)から平而関(Bi-nhi)─までの中越境界碑設置の公務にあたらせたほか、広西太平思順道蔡希邠も広西西路─平而関から各達村─までの境界碑設置に携わりました。
広西中越全界之図
- 光緒二十年
- 縦95.5cm 横106.5cm