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広西-ベトナム、広東-ベトナムの境界調査

清朝政府とフランスによるベトナム国境に関する協議は「中法会訂越南条約十款」(中法越南新約)の第一条、二条、三条の規定によります。その内の第三条には、条約締結後6ヶ月以内に双方が官員を派遣して共同で境界調査を行うことが定められています。清国とベトナムの境界には、広東、広西、雲南の3省がありました。そこで清朝とフランスはベトナムの境界調査と国境線画定を桂越(広西とベトナム)、粵越(広東とベトナム)、滇越(雲南とベトナム)の3箇所で実施しました。

桂越と粵越の調査で清朝政府は「中法会訂越南条約十款」に基づき、鴻臚寺卿鄧承修を広西へ派遣して、両広総督の張之洞、広東巡撫倪文尉、護理広西巡撫李秉衡らとともに、中越境界調査を行わせました。双方は光緒12年(1886)から同19年(1893)まで、桂越と粵越間の境界調査と境界碑の設置作業を相次いで完了させました。こちらのコーナーでは、「中法会訂越南条約十款」(天津条約)や「中法続議界務専條」、関連の境界記録資料、境界地図などの文献史料を展示いたします。

中法会訂越南条約十款(中法越南新約)

中法会訂越南条約十款(中法越南新約)

  1. 締結日:光緒十一年四月二十七日
  2. 締結地点:天津
  3. 改正日:光緒十一年六月七日
  4. 改正地点:北京
  5. 縦36cm 横22.7cm
約の承認を拒絶した。光緒8年(1882)、清仏間で開戦となり、同10年(1884)にフランス海軍が福州を攻撃、それに続いて長江の要塞と港が封鎖された。その翌年、フランス軍は諒山之役で敗れ、勢いをそがれた。清朝は李鴻章を派遣してフランスの駐北京公使パトノートルと協議させ、「中法会訂越南条約十款」(天津条約)が締結された。この条約に基づいて、清朝はフランスとベトナム間で結ばれた全ての条約が有効であることを承認せざるを得なくなった。また、両国は中国と北圻(Tonkin)が接する境界に官員を派遣して、国境線画定の調査を行うことも定められた。この条約には清仏双方による批准書のほか、全権代表による書判入りのフランス語文書、同じくフランス語で条約改正を示す証書、フランス側の批准書の訳文が含まれる。
粵(桂)越東路初次定界図

粵(桂)越東路初次定界図

  1. 光緒十二年
  2. 縦88.5cm 横34cm
南関から隘店隘までの境界調査完了後、鄧承修と浦里燮は再度調査隊を率いて南関から平而関の調査を実施し、第四号境界調査記録文書に署名して境界を画定した上で、この区域の境界地図を作成した。この図に見える赤い十字で示された境界線は、南関(下方に見える文淵の北方)手前の小橋から西に向かって「甲」、「乙」、「丙」、「丁」などを通過して山子心村に至り、そこからまた北へ向かい、岜口隘、楊村外柵、板埍外柵を経て、更に「癸、「子」、「丑」、「寅」、「卯」などを通り、「卯」という場所の東側の平而関(汎)までが描かれている。