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雲南-ベトナムの境界調査

光緒11年(1885)、清朝は周徳潤と岑毓英を勘界大臣として派遣し、フランスの境界調査使臣ディロン(Charles Dillon、生没年不詳)やティセール(Bernard Franҫois Justin Tisseyre,1838-1937)らと共同で滇越(雲南─ベトナム)地域の境界調査を行わせましたが、清仏両国の意見は分かれ、双方の代表は翌年(1886)6月から対面して境界調査に関する協議を始めましたが、フランスの官兵が境界付近で賊に襲われたり、境界調査の使臣が重い病に倒れたりなどの事件があり、実地調査は遅々として進みませんでした。双方は再度協議を重ね、絵図の通りに境界を定めることに決め、実地調査には出向かないこととしました。光緒12年(1886)9月に周徳潤とディロンは河口汛(Ho-k’eou)地域の境界を図に従って画定し、5段に分けた地域の境界調査結果の摘録に署名し、計5段の境界図を作成しました。しかし、第2段と第5段の境界調査で双方に意見の相違があったため、後に改めて要員を派遣して境界調査を行いました。その際の調査文書は光緒13年(1887)5月に締結された「中法続議界務専条」に加られました。

滇越第二段定界図(「丁」字箇所から「戊」字箇所の境界線は改定されている)

滇越第二段定界図(「丁」字箇所から「戊」字箇所の境界線は改定されている)

  1. 光緒二十一年
  2. 縦42.8cm 横56.2cm
光緒13年(1887)5月6日、清朝政府とフランスは「中法続議界務専条」を締結し、5段に分けた地域の地図を作成したが、一部の地域の境界画定に関して意見の相違が多く、境界碑設置作業は遅々として進まなかった。同21年5月28日(1895)、清朝とフランスは「中法続議界務専条附章」を締結。滇越(雲南-ベトナム)の第2段と第5段地域の境界線に初めて修正が加えられた。この図の方位は上が北、下が南、左が西、右が東となっている。左上にフランス語訳で「第2段境界線」と記してある。R点から南納まで、境界を示す赤線は「丁」の箇所から始まり、東北へ向かって漫美に至り、更に東へ向かって南那(「戊」とある箇所)で終わる。漫美はベトナムに戻され、赤線で示された境界の北方─猛峝の上・中・下3村は再び清国の地となった。地図の右下に慶親王奕劻と徐用儀の書判があり、総理各国事務衙門関防並びにフランス駐京公使オーギュスト・ジェラールの署名と使館の印が押されていることから、この「中法続議界務専条附章」は正式な境界図だと認められる。
中法滇越界約

中法滇越界約

  1. 締結日:光緒二十三年五月十四日
  2. 締結地点:保勝河口
  3. 縦23.5cm 横27cm(界図文約)
  4. 縦48.5cm 横40cm(第一次文約界牌式様一)
  5. 縦31.6cm 横18.6cm(第一次文約界牌式様二)
光緒13年(1887)、清朝の勘界大臣である周徳潤と岑毓英、フランスの使臣ディロンは雲南-ベトナム地域の境界調査を行ったが、境界画定法で合意に達することができず、調査の続行は困難となった。双方は再び調査の継続と実施を計画したが、諸々の理由により延期となった。同20年(1894)、フランス側の監督者セルヴィエール大佐と清朝より派遣された関道湯寿銘により境界調査法についての協議が開始された。同22年(1896)7月に総辦滇越界務雲南開化府知府の劉春霖とフランスの代表による協議を経て、雲南-ベトナム地域の境界を4段に分割することに同意し、調査の実施と境界碑の設置が進められることとなった。同年9月19日、双方は基本原則を確定し、清朝とフランスからそれぞれ委員を各段に派遣して境界調査と境界碑の設置を行うことが取り決められた。光緒23年(1897)5月14日、雲南-ベトナム地域の調査が完了し、龍膊河から猺人寨まで、計65基の境界碑が設置された。双方は「中法滇越界約」を定めた文書2部に署名し、地図6枚に書判を入れて条約締結の証とした。外交部より本院に寄託された「中法滇越界約」は漢文の境界図と4段に分けた境界地域の調査結果に署名と書判が記されたもので、境界画定の条約締結後に双方が人員を派遣して共同で調査を行い、境界碑を設置した期間に関する記録である。表紙に「中法滇越界約」ではなく「界図文約」とあるが、これは誤植である。