乾隆29年(1764)、郎世寧(ジュゼッペ・カスティリオーネ/Giuseppe Castiglione)は76歳という高齢でしたが、清朝の準回(ジュンガルとウイグル)平定を記念する「得勝図」の制作を命じられました。乾隆帝はその画稿をパリへ送って版刻し、銅版画を制作するように命じました。郎世寧が担当した下絵の内、「格登山斫営図」と「黒水囲解図」の2作は、郎世寧がその生涯の最後に手がけた重要な作品です。
この度の特別展では、この戦役に関する諭旨文書や銅版画制作に関連する公文書と翻訳書簡を展示いたします。このほか、清朝により撰集された郎世寧の伝記資料、当時フランスで制作された郎世寧画「得勝図」の試し刷りと完成版も合わせて展示し、郎世寧の生涯と芸術上の成果をご紹介すると同時に、18世紀の乾隆帝による戦争と芸術の融合─その頂点とも言える表現をご覧いただきます。
清 郎世寧
画阿玉錫持矛盪寇図 卷
- 卷 紙本着色
- 引首縱27.1cm 橫56.5cm
- 本幅縱27.1cm 橫104.4cm
阿玉錫(アユシ ,生没年不詳)、モンゴルのジュンガル人で、後に清朝に仕えた。乾隆20年(1755)、ジュンガルの汗達瓦齊(ダワチ)はロシア帝国と結託し、清軍に挟撃される中、イリ西北のゲデン・オーラへ逃れて陣を敷いた。阿玉錫が騎兵を率いて反乱軍の陣地に夜襲をかけると、達瓦齊らは総崩れとなって逃亡したが、その後、霍集斯(ホジスベク)によって捕らえられた。勅命を受けた郎世寧は戦功を立てた阿玉錫の油彩肖像画を描いたほか、「得勝営盤図」も制作し、頭部像を元に槍を構えて馬を駆る姿も手巻に描いた。
背景はなく、暖帽に孔雀の尾羽をつけた阿玉錫が写実的に表現されている。箭衣(射手が着た袖の細い衣服)を身に付けた阿玉錫は火槍を背負い、腰に箭嚢を下げ、槍をしっかりと握り、馬を駆り勇ましく突撃する姿が描かれている。
『平定準噶爾回部得勝図』
「格登山斫営図」
- 郎世寧(Giuseppe Castiglione, 1688-1766)起稿
- 柯升(Charles-Nicolas Cochin, 1715-1790)主編
- 勒霸(J. Ph. Le Bas, 1707-1783)雕刻
- 乾隆三十四年(1769)パリエッチング原本
- 縱58cm 橫95cm
この絵図は「愛玉史詐営図」とも言われる。オイラトモンゴルのジュンガルを壊滅状態にし、清軍による天山北路制圧を決した戦役の様子が描かれている。乾隆20年(1755)5月、清朝に帰順した阿玉錫(アユシ / 生没年不詳)騎馬の精鋭22人を率いて、ジュンガル部の達瓦齊(ダワチ,?-1759)が守るゲデン山の陣営への夜襲を成功させた戦果を絵図にしたものである。ゲデン山陣営の敵軍は装備も十分で、重火器も多数所持していた。阿玉錫達は抜け道から敵軍に近づいたが、発見されるとすぐさま軍を率いて突き進み、長矛を構えて突撃した。その圧倒的な勢いに驚いた達瓦齊の陣営は壊滅状態となり、大慌てで逃げ出したという。
郎世寧が全図を描いた作品で、その時の情景が写実的に描写されている。細部まで丁寧に描かれた人物の表情や、空間の奥行きが生み出す立体感など、観ている私達も今正に戦場にいるかのような錯覚を覚え、戦雲立ち込める殺伐とした雰囲気や戦闘の緊迫感が伝わってくる。画中の阿玉錫は黒馬を駆りながら手に長矛を構え、敵軍の胸を突き刺している。この戦役で阿玉錫が敵陣営への夜襲を成功させたため、乾隆帝は郎世寧に命じて「阿玉錫持矛蕩寇図」巻一幅を描かせたほか、詩文でも記述を残し、その忠義と勇猛さを顕彰した。
郎世寧が下絵を完成させると、乾隆30年(1775)に初めてフランスへ送られ銅版画制作が発注された。版刻を担ったパリの名工ル・バ(J. Ph. Le Bas, 1707-1783)の名も画面下方の岩に見える。乾隆34年(1779)にこの銅版画は完成し、翌年の9月から10月にかけて、フランスの東インド会社により清国へと搬送された。
『平定準噶爾回部得勝図』「黒水囲解図」
- 郎世寧 (Giuseppe Castiglione, 1688-1766)起稿
- 柯升(Charles-Nicolas Cochin, 1715-1790)主編
- 勒霸(J. Ph. Le Bas, 1707-1783)雕刻
- 乾隆三十六年(1771)パリエッチング原本
- 縱58cm 橫95cm
「黒水」とは、モンゴル語で「喀喇烏蘇(カラ・ウス)」と言い、新疆葉爾羌(ヤルカンド)川上流に位置している。郎世寧が描いた「黒水囲解図」は、乾隆24年(1759)3月に兆恵(1708-1764)が葉爾羌城外で苦戦していた際、援軍が到着して包囲を突破した史実が描かれている。乾隆帝自ら「黒水囲解」と題した詩を書き、戦況の詳細を具体的に描写した。
後方には流れ行く雲に覆われた険しい山々が連なり、孤立無援で奮戦する清軍の苦闘が更に際立って見える。左側では清軍が防御を固めており、中央には背筋を伸ばして鞭を持つ兆恵の姿が見える。鎧兜に身を固めた兆恵は、落ち着いた様子で軍を指揮している。その姿はまるで軍の士気を安定させる大切な力を秘めているように見える。右側には集められた清兵の大群が包囲を突破する様子が描写されている。それぞれの道を行く兵が共に前進し、回部を追撃する壮絶な場面となっている。発生時間の異なる出来事が、時空の制限を突破して1枚の絵図に収められている。戦争の場面や状況を描写するに足る郎世寧の画力がよく表れており、清軍による回部討伐の詳細な記録画となっている。
この戦争図はパリに銅版画制作が発注され、名匠ル・バによって版刻された。乾隆36年(1771)に完成し、その翌年、銅版画と銅板が清国へ送り届けられた。
「為辦理平定準部回部得勝図銅板四幅交法国刻製事」
- 署理両広総督楊廷璋(1689-1771) 粵海関監督方体浴(1735-?)等奏
- 乾隆三十年八月初一日
- 縱22cm 橫126cm 12扣
乾隆30年(1765)5月26日、乾隆帝は「平定凖噶爾回部等処得勝図」を制作するとの詔書を発布し、イエズス会の修道士郎世寧と王致誠(Jean-Denis Attiret)、艾啓蒙神父(Jgnatius Sickeltart)、アウグスチノ会士の安徳義神父(Joannes Damasceuns Salusti)ら4名に、最初の画稿4枚を描かせ、西洋に銅版画制作を発注する手配をした。6月16日、内務府造辦処は画稿4枚とイタリアへの書簡1通、勅書とそのイタリア語及びラテン語訳を乾隆帝のご覧に入れた。その後、乾隆帝は兵部が早急に広東へ届けて手配するよう軍機処に命じ、7月10日に広東へ届けられた。この奏摺は両広総督楊廷璋と粵海関監督方体浴が8月1日に連名で進捗を覆奏したものである。その報告内容から、広東官員達はヨーロッパのどの国へ発注するのか知らされていなかったことがわかる。広東行商を介して在広州のフランス東インド会社長官に問い合わせるなどしたが、フランス人のLouis Joseph Le Febvre神父が楊廷璋と親しい官員に働きかけ、フランスの彫刻技術が最良だと力説したことにより、総督らはフランスに発注することに決め、乾隆34年(1769)に最初の銅版4枚を完成させて送るよう希望した。海路の危険を考えた楊廷璋らは、乾隆帝に下絵を2組制作して別々に送らせるよう進言したが、乾隆帝が書いた硃批には、「1組で足りる。そのような必要はない。」とある。
「洋商帶回鐫工首領柯升寄京書信呈覧」
- 蒋友仁、銭徳明訳
- 乾隆三十五年八月初四日
- 縱267cm 橫67.8cm 6扣
本件說明了在兩廣總督李侍堯傳達了對法商延期繳交銅版畫的不滿後,乾隆三十五年八月初四日,廣東進呈了法國內廷特等鐫工柯升的陳情書(mémoire),軍機處交由法國耶穌會士蔣友仁(Michel Benoist, 1715-1774)和錢德明(Jean-Joseph Marie Amiot, 1718-1793)翻譯。柯升在信函中指出銅版畫製作工藝細緻,中國製造的紙張無法用於銅版畫印刷,必須採用法國紙張,而印刷銅板的油墨亦需要特別熬製,以適應銅板上細微的紋路,油墨以葡萄酒渣為原料。而印前在銅板上敷摸油墨的功夫亦是印刷效果的關鍵,在法國數百名工匠中,也只有四五位熟練此一技術。在考慮紙張、油墨、印刷技術等因素後,為求謹慎製作,必須耗費時日,故而延遲交件。柯升在信中亦建議印刷一千份銅版畫隨同銅板送回,同時承諾也會將銅版畫的做法詳細註明。