青銅兵器の更なる発展
戦国時代以降、青銅製の兵器は次第に鉄器に取って代わられましたが、弩の主要な部材である青銅弩機だけは時代を経ても廃れることなく、魏晋南北朝になっても青銅で作られていました。それに加えて、春秋戦国時代から始まった佩剣の気風は秦漢時代にも受け継がれ、貴族や官吏たちは佩剣で身分を示していました。青銅兵器に込められた礼制や精神性は、鉄器時代へと歩を進めつつあった秦漢にも大きな影響を与えていたのです。
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魏 太和二年 刻銘弩機
郭長さ14.2cm 郭横幅4.3cm
郭の手前突起4cm 総高18.8cm
望山長さ7cm 懸刀長さ8cm弩機は弩の重要な部分で、現代の銃で言えばトリガーと照準記に相当する。完全な形の弩は弩弓と弩臂、弩機からなるが、弩弓と弩臂は木製だったので保存が難しく、青銅製の弩機のみ残されていることが多い。弩機は春秋晩期に登場したが、当初は郭がなく、漢代になってから郭のある弩機がようやく普及し始めた。この弩機の郭は凸字形で、懸刀には筋が入れてあり、望山には発射角度を示す目盛りが付いているなど、成熟期の様式となっている。
非常に珍しいのは、この弩機には史実の詳細が記録された銘文がある点で、郭にある銘文によれば、この弩機は太和2年に製作されたことになる。「太和」という年号を用いた皇帝は三人いる。三国時代魏の明帝、東晋の廃帝、北魏の孝文帝である。銘文の形式から、この「太和」は三国時代魏の明帝(曹叡)の年号であると知れる。太和2年は西暦228年にあたる。
また、この銘文には、この時代には弩の製作が高度に専門化、体系化されていたことも記されている。弩臂を作る臂師、弩機を作る牙師など、各部品はそれぞれの職人たちによって別々に作られていた。それに加えて監督制度もあり、弩の製造に責任を負う機関や監作吏がいた。郭に刻された銘文のほか、弩機の各部品にも同じ数字や符号が刻されている。これらは製作工程や組み立てに関連があるのかもしれない。