書斎は文人生活の重心であり、その長い卓上には古い硯や水注、文鎮などの文具が欠かせません。これらの文房具は書き物に必要な道具としてだけでなく、長く使っていくうちに賞玩の対象ともなっていきました。硯の材料は大きく陶と石の二つに分かれ、墨が擦りやすく筆を傷めないものが上質とされました。宋代は澄泥、端石を素材とした硯が最もよく見られ、多くは抄手硯でした。明代以降は硯の形が多様化し、硯盒の製作もますます手が込み、硯に使用者や収蔵者の款識を刻むなど、懐古の情緒も見られるようになります。文人は古の事物を好み、硯滴、水注、文鎮などは殷・周・漢代の銅器で揃え、筆洗、筆筒、筆置などは宋代定窯の白磁、哥窯の貫入磁器、自然の色を生かした玉器にこだわるなど、卓上には各材質の文房具が見られ、古き時代に馳せる思いを筆意にも重ねたことでしょう。また、傍らの銅や磁器の香炉と花瓶に生けられた花から香りが漂い、思い立った時に心を込めて整理した収蔵箱を開き、古今中外の珍玩を賞玩しながら一人楽しんでいたのかもしれません。
宋代では石硯のほか、澄泥硯もよく使用していた。澄泥硯は粘着性のある細かい泥を原料とし、濾過、沈殿、叩いて成形した後、陰干しして低温で焼成する。この澄泥硯は下端がやや末広がりになっており、「風」の字を思わせる。硯は裏が斜めにくり抜かれた抄手硯で、作りは質朴で優雅な趣がある。澄泥の色は淡い黄色を呈し、細かいキメと軽い質感から澄泥の中の上等品であることがうかがえる。硯の側面に隷書体の「南軒老人寫經硯」の文字が陰刻されている。南軒老人とは南宋の理学学者-張栻(1133-1180)であると思われ、字は敬夫、号は南軒。張栻は岳麓書院を苦心して運営し、一時は書院を盛り上げ、理学の分野では朱熹や呂祖謙と肩を並べた。硯は文人の書斎には欠かせない文房具であり、宋代の人々は硯の傍らに水盂、硯滴、筆置などを置いた。硯滴はヒキガエルなど動物を象った銅製のものが多く、筆置は玉製の山形、または珊瑚の形をしたものがよく見られた。懐古的で自然な趣が好まれ、机に並んだ各種文具は書き物に用いるだけでなく、その中に身を置くことで書斎の落ち着いた優雅な雰囲気に浸ることができたのであろう。
「圧尺」とは、その名の示すとおり字を書く時に紙を押さえる直定規の形に似た文房具で、宋代には早くも書斎に必須の文具であった。宋代の文献と墳墓の出土品から、当時の圧尺の素材には石、檀香、銅などが使われていたことがわかっている。明代には木製の圧尺に獣形のつまみを中央に象嵌したものが流行した。この象牙の圧尺は、明代の圧尺の基本様式を継承しつつ、獣形のつまみの大きさが強調されている。ほぼ圧尺本体と同じ長さのつまみには、大小二匹の龍が透かし彫りされ、龍の表情は古拙で味わいがあり、簡略化された体は大小の渦を巻きながら前後に連なり、躍動感にあふれている。これに対して圧尺本体は重厚感があり、側面には浮き彫りの龍が向かい合って配され、体は直角に折れながら左右に伸びている。形は全体的に端正で整っており、彫刻も精緻である。象牙本来の色を呈し、美しく温潤な質感があり、王室の堂々たる気勢を感じさせる。この圧尺には清朝内務府の札が残されており、嘉慶十八年より以前に北京中南海の瀛台に置かれていたことがわかっている。同時に展示されている筆筒、文鎮、挿屏(卓上に置く屏風の形をした置物)、水入れなど共に乾隆帝が政務に使用した一組の文房具であったと考えられている。
筆置きは「筆架」、「筆山」、「筆格」とも呼ばれ、筆を一時的に置くための文房具の一つである。南宋の趙希鵠の《洞天清禄集》に記載されている筆置きには、白と黒の二種類の玉を山峰の形に彫ったもの、銅を蟠螭の形に鋳造したもの、或いは霊壁石を山形に象ったもの、また珊瑚の自然の枝分かれを生かした愛らしいものなどがある。浙江の南宋時代の墳墓からは水晶や玉を材料とした山形の筆置きが出土しており、宋代の筆置きを評価する観点は元代、明代、清代など各時代の文人の間で受け継がれてきた。水晶でできたこの筆置きは五つの山峰から成り、中央の高く聳え立つ主峰から左右対称に低くなっていく。この作品の特色は滑らかな尾根の稜線と、山の前後に重なったごつごつとした山石にあり、共に麗しく雄渾な山々を表現している。まるで大自然の縮図を見ているかのようであり、まさに文房具の傑作である。書斎の机に置き、読書や書き物の合間にふと目に触れれば、山水の間に心を遊ばせることができよう。