彫刻は工芸技法の一つであり、陰刻、浮き彫り、透かし彫り、立体彫刻に至るまで、古くから装飾品や生活用品、賞玩品などに幅広く応用されてきました。さらに材質も多岐にわたり、金、玉、石、竹、牙、骨、角などすべてに彫刻を施すことができます。装飾のテーマには吉祥を象徴する図像、歴史の各種故事、神仙の伝説などがあり、中には伝統とその時代の風格を組み合わせた豊かで多様な作品も見られます。実際、清朝宮廷に収蔵されていた多くの彫刻品は、例えば文具や装身具など、その選び抜かれた素材、精巧な彫刻、独特な意匠などから見るに、既に本来の実用的な機能を超え、精緻な日常生活を追求した心が顕著に表れています。さらには材質の特性と彫刻の技巧を結合させた職人の巧みな意匠は、広大で精緻を極めた彫刻の美を余すことなく体現し、見てよし、楽しんでよし、想像してよしの神業のような作品に誰もが賛嘆を禁じ得ないことでしょう。
高さわずか3cmの橄欖の種にぐるりと連続した風景が彫られている。岸辺の松の木の下に二艘の漁船が停泊しており、船の乗客が岸辺の人と歓談しながら酒を飲んでいる情景が浮き彫りで表現されている。大きさこそ小さいものの、高浮き彫りや透かし彫りをうまく運用し、彫刻のテーマと人物の表情を生き生きと伝えている。松の木や船舶などの細部の描写は極めて凝っており、斧劈皴で岩肌の質感を表し、陰刻の細い線を用いて遠景の山々を表現している。作品全体が細緻を極め、表現手法においては竹彫に見られるような奥行き感をはっきりと出しており、同時に山水画のような広がりのある空間も持たせている。この彫刻作品には「庚辰孟夏望前 陳子雲製」の款が刻されている。陳子雲は清代初期の蘇州一帯の彫刻家と考えられており、同時に展示されている「松下高士」及び「花卉」の橄欖の果核彫刻作品からもわかるように、彼は構図と彫刻技法を巧みに運用しながら、詩や絵画の境地を彷彿させる小さな空間の創造したのである。
扳指とは本来は親指にはめ、弓を射る時に弦を引っかけて親指を怪我から守る道具であったが、清代に入ると装飾品として変化し、玉、磁器、金属、牙や角、木など各種貴重な素材で作られた。乾隆時代に犀角で作られたこの扳指は、九つのうち四つが現存している。表面には蟠螭、異獣、雲文、龍獣文、またはその他幾何学模様などが金銀細工で施されている。犀角の深みのある褐色の地に縁取り、交錯、引き立てに用いられた金や銀の細線が、上品で落ち着きのある趣を醸しだしている。各扳指にはそれぞれの文字を二重線で囲んだ「乾隆年製」、または「乾隆御用」の篆書体の四文字が金糸で埋め込まれている。材料が貴重なばかりでなく、象嵌も実に精細であり、金銀細工の美を存分に表している。同時に展示されている「彫牙骨嵌金銀絲扳指」も白地に金や銀が象嵌され、それぞれ独自の巧妙な意匠を感じさせる。この二組の扳指はいずれも三連獣足の特殊な形をした紫檀の箱に収められており、蓋には陰刻された蟠螭文が交錯しながらびっしりと埋め尽くされ、三層になった箱の内部に扳指が各層三個ずつ収められていた。扳指の製作と収納箱の彫刻と形は、いずれも清代の彫刻、金属象嵌技術及び包装芸術の特色を表していると言えよう。
この銀槎(“槎”は筏の意)は、漢代の張騫が筏に乗って川の源を尋ね、天河に至り牽牛と織姫に会い、機織り機の支機石を持ち帰った物語をテーマとした作品である。枯れて空洞になった木の幹を槎(筏)とし、その中に主人公の張騫が乗り込んでいる。張騫は空を見上げ、風を迎えて笑みを浮かべ、髪を束ねた帯も風にたなびき、襟元も緩んでしまっている。右手に持った縦長の石には篆書で「支機」の二文字が書かれている。形は全体的にシンプルで落ち着きがあり、ラインも滑らかで洗練されている。また、人物の表情や動きも生き生きとしており、銀の彫刻作品の中の傑作である。底に記された「碧山子」及び「至正乙酉年造」の篆書体の銘から、元代の嘉興地区の著名な銀彫職人「朱碧山」、或いは朱氏の技術を継承した職人の作品であることがわかる。清代の内府には朱氏の銀槎作品が三つ収蔵されていたが、形も趣向もそれぞれ異なるものだった。同時に展示されている銀槎は乾隆三十一年に内府が、現在北京故宮博物院に収蔵されている「朱碧山」銀槎を模して作ったもので、清代における銀器製作の継承と発展をうかがうことができる。