流行仕掛け人により左右される文化の繁栄
王世貞は芸文界の領袖として、数々の新しい風潮や流行の仕掛け人となり、この時代の繁栄は王世貞によって定義されました。王世貞は熱心な園林(庭園)愛好家で、生涯を通してかなりの資産を造園につぎ込みました。また、園林観賞の旅を文章として記録し、それに園林の絵図も添えました。それによって園林画の制作が一層促されたのです。また、王世貞は当時の旅行ブームに乗って、画家帯同旅行の先駆者となり、それまでとは画風も意義も全く違う紀遊図冊を制作しました。これは芸術家のパトロンが作品の創作に直接的な影響を与えた実例で、清代に制作された類似絵画の先例となったのです。今なら知らぬ者はいない『本草綱目』も王世貞にその価値を認められ、序文を執筆してもらって、すんなりと出版できました。王錫爵の娘の曇陽子の信仰は、王世貞が強く推したことで瞬く間に大評判になりました。このほか、後人が制作した、王世貞の作とされる「西王母伝」によって、西王母の図像が更に広まりました。こちらのコーナーでは、王世貞が火付け役となった流行を通して、「声望が天下を覆う」とまで言われた王世貞に対する評価の高さや、王世貞によって定義された豊かな文化とその繁栄をご覧いただきます。
明 銭穀 紀行図
- 10.5-11.15(8開)
- 11.16-12.25(8開)
- 12.28-2.7(8開)
- 2.8-3.21(8開)
この作品は、王世貞が北京までの舟旅(1574年)の見聞録として制作を依頼したものである。しかし、銭穀(1508-1578)は遠方への旅行はあまり気が進まなかったようで、王世貞の小祗園から揚州の水路の景色までを描いたのみである。図冊は計32開あり、本院所蔵の『銭穀張復合画水程図冊』の上冊とほぼ同じだが、筆調はより清麗で雅致があり、銭穀が別に制作した複本かもしれない。銭穀、字は叔宝、江蘇呉県の人。幼少の頃は貧しく、教育を受ける機会もなかったが、後に文徴明の門下となる。山水と蘭竹画を得意とし、晩年はしばしば王世貞のために絵を描いた。王世貞もその返礼として銭穀や陸治(1496-1576)など、呉門画家の伝記を書いている。
明 銭穀、張復 合画水程図
- 10.5-11.15(8開)
- 11.16-12.25(8開)
- 12.28-2.7(8開)
- 2.8-3.21(8開)
この図冊は上中下3冊に計84図が収録されており、巻末の副葉に題跋2開がある。王世貞が銭穀(1508-1572)と張復(1546-1631)に制作を依頼した作品。題跋を見ると、これらの絵は王世貞が万暦2年(1574)に郷里から大運河を経て北京へのぼった旅を絵図で記録したものだと知れる。前半の32開は小祗園から揚州までの旅路を銭穀が描いたもので、それに続く52開は王世貞の道連れとなった張復が北上の道すがらに描いた作品で、その後、師匠の銭穀がいくらか手を入れて完成した。この図冊の内容は伝統的な勝景図とは違い、川沿いの景色だけでなく、それまで絵に描き入れられることがなかった行政機関や河川設備なども描かれている。王世貞の指示の下、実際の風景をドキュメンタリー風に記録した作品で、絵図で歴史を記録しようとした意図がうかがえる。
明 剔紅八仙慶寿人物筆筒
- 第1期 10.5(水)-12.25(日)
- 第2期 12.28(水)-3.21(火)
円柱形の筆筒。たっぷりと厚く塗られた真紅の漆は艶やかで潤いがある。細かな装飾模様の地に生い茂る樹木や雲、人物が彫刻されており、空間に奥行きがある。直接的で鋭い彫り方は、嘉靖、万暦朝の彫漆ならではの特色である。中景に並ぶ八仙は張果老を筆頭に、寿桃を捧げ持ち、上方にいる西王母に献上しようとしている。八仙は明代晩期に流行した吉祥を表す題材で、「八仙慶寿」は宋元以来、戯曲には欠かせない主題だったが、八仙と西王母が同時に出現している画面はそれほど多くない。この西王母は鳳の背に足を組んで座り、如意を持っている。その前には侍童が、後ろには侍女が控えている。天から降ってきた西王母と八仙が出逢う様子は慶びと賑わいに満ちている。文人文化と大衆文化が融合した作品である。
明 顧繍八仙慶寿掛屏(十一) 西池王母
- 第1期 10.5(水)-12.25(日)
この作品は八仙慶寿掛屏12副のうちの一つで、綾地に西池王母が色とりどりの糸で刺繍されている。この一連の作品には八仙のほか、西池王母や南極仙翁、和合二仙など、各幅に一人の仙人が刺繍されている。
王世貞の著作と見せかけた『有像列仙全伝』にも西王母の図像が掲載されている。この王母は半人半獣ではなく、大らかで清らかな雰囲気の女神の姿で表現されている。鳳凰に乗った王母が降臨するところで、傍らには侍女が控えている。その周囲を祥雲が取り巻き、衣服の裾や帯が翻っている。非常に丁寧で細緻な刺繍で、まず先に鳳の尾を描いてから刺繍してあり、絵と刺繍が融合した斬新な効果が見られる。長短異なる刺し方や、線を繋げていく技法、網目のような刺繍法など、様々な技法が巧みに組み合わされ、幽雅な色遣いと変化に富んだ配色により、明代晩期以降に流行した王母のイメージが表現されている。
明 李時珍 本草綱目
- 第1期 10.5(水)-12.25(日)
『本草綱目』は明代の薬学家李時珍が歴代本草学を基礎とし、自ら考案し完成させた薬物学を組み合わせた大著である。李時珍は当時の文壇の領袖だった王世貞に序文の執筆を依頼したが、王世貞に内容の不備を指摘されたため、持ち帰って修正することにした。それから10年後、李時珍は修訂を重ねて終に完成した『本草綱目』を携えて再び王世貞を訪ねた。王世貞は修訂後の内容に大いに満足し、喜んで序文を書いたという。王世貞が序文を執筆し、内容に太鼓判を押したことから、南京の書商たちは王世貞の序文がある『本草綱目』を刊刻しようと争ったが、最終的には南京の蔵書家で書商でもあった胡承龍が本書の出版を手がけ、後世に伝えられることとなった。
明 楊爾曽 新鐫仙媛紀事
- 第2期 12.28(水)-3.21(火)
王錫爵(1534-1610)の次女王燾貞法の法号は「曇陽子」といい、10万もの人々が見守る中、婚約者の墓前で端座したまま昇天して仙人となった。明代晩期に発生したこの出来事は社会に衝撃を与えて大事件となり、東南地方の芸文界からも広く注目を集めた。王世貞とその著作「曇陽大師伝」はこの「神化運動」を主導した重要な人物と文献であり、これをきっかけに各書坊による神仙伝記出版ブームが巻き起こった。楊爾曽の『新鐫仙媛紀事』はこのような文化的背景の下、時流に合わせて出版された書物で、修練により仙人となった女性たちの故事が収録されており、徽派版画家の絵図と優れた刻工の技も相まって、精緻な出版物という形を通して、その文章と信仰、美意識が広く世に広まった。