階級と地域における重層的な競争の激化
文徴明(1470-1559)が世を去ると、王世貞は蘇州地方の賞鑑における指導者的人物となりました。明代晩期には各地に鑑蔵家が少なからず存在していました。嘉興の項元汴(1525-1590)、新安の汪道昆(1525-1593)と詹景鳳(1528-1602)、松江の莫是龍(1537-1587)などの名が挙げられます。これらの人々は大富豪もいれば、その地の名士や一般庶民もいて、出身地も階級も異なりましたが、莫大な富と確かな鑑賞眼を持ち、各地から蘇州の芸文鑑賞の権威性に挑み続けたのです。こちらのコーナーでは、当時、江南各地の収蔵家たちが大量の作品を収蔵していた状況をご紹介しつつ、王世貞と収蔵家たちが競い合った様子をご覧いただきます。清代初頭の文献にも、王世貞が蘇州芸文界の人士を大勢引き連れて徽州を訪れ、地元の才人らと幾度も才芸勝負を行ったことが記されています。それほど盛大な文会が実際に行われたのか否かはともかく、その噂自体は蘇州文人と徽州商人の競合関係について、非常に具体的かつ詳細に叙述されており、その話の最後は、徽州の才人が王世貞に認められ、勝利を収めたようだと結ばれています。しかし、この勝負の結果は芸文界の領袖である王世貞と、この時代に才芸の優劣を論断できる者の権威性が一層強く示されることになったのです。
前漢 項元汴銘玉蝉
- 第1期 10.5(水)-12.25(日)
- 第2期 12.28(水)-3.21(火)
漢代の玉蝉は、もともとは葬儀の際に大貴族(死者)の口に含ませた物で、蝉のように羽化して生まれ変わるようにとの願いが込められていた。後の時代になると用途が変わり、ヒモを通す穴も開けられた。表と裏に篆字が陰刻されている。「金章宗御題晋右軍将軍王羲之瞻近龍保帖真蹟、明墨林山人項元汴秘賞。」本院が所蔵する三希堂法帖に含まれる王羲之(303-361)の「瞻近帖龍保帖」には、欧陽玄が至正丁酉(1357)に書いた題跋があり、その帖の痩金体で書かれた付箋は金章宗(1189-1208)が宣和書法に倣って書いたものだと記されている。項元汴(1525-1590)は嘉興(現在の浙江省)出身で、明末に収蔵家として名を馳せた。その帖には項元汴の収蔵印記もあるため、玉蝉に記された内容は明代の法帖収蔵と関わりのあることが知れる。
明 歙硯(周柱款百宝嵌硯盒付き)
- 第1期 10.5(水)-12.25(日)
- 第2期 12.28(水)-3.21(火)
辟雍硯の様式を模した円形の硯で、外周が硯池になっている。素材の安徽歙石はきめ細かく発墨がよい。明代晩期の倣古硯である。この硯には木製盒が付いている。漆や木片、骨片、角片をはめ込んだ螺鈿細工と染色で表現された、色鮮やかな花鳥図で装飾されている。梅の枝にとまるカササギと、木の下に咲く椿の花が互いに映えている。盒の底に銀糸を埋めた篆書体4字の方印「呉門周柱」がある。明代晩期に色とりどりの宝石や珊瑚、牙角、貝殻、漆木など、様々な素材を象嵌して模様を表現した「百宝嵌」という工芸が流行した。嘉靖、万暦年間にこの技法を最も得意とした名匠の姓は周である。王世貞は『觚不觚録』で名匠の名を列挙した際、周治と書いている。張岱の『陶庵夢憶』には周柱とあり、「呉中絶技」と称賛している。
晉 王羲之 快雪時晴帖
- 2.8-3.21(期間限定展示)
題跋によれば、盧という姓の画商がこの帖を王穉登(1535-1614)に売り、後に劉承禧(?-1662)の収蔵品となったという。王忬(王世貞の父)は死後、徐階(1503- 1583)と劉澯(1504-1563)、劉守有父子の助力により、官位を回復した。王家と劉家は非常に親しく、劉承禧は『金瓶梅』の最初の出版者で、二人のかなり特別な関係がうかがえる。「快雪時晴帖」は王羲之(303-361)が書いた尺牘だが、真跡が失われていることから、次第にこの唐摹本が貴重な法帖とみなされるようになり、乾隆皇帝(1711- 1799)秘蔵の三希の一つにもなった。歴史と文化、芸術的価値を兼ね備えた作品である。
五代南唐 董源 龍宿郊民図
- 10.5-11.15(期間限定展示)
董源(?-962頃)、江南の風景を描いた山水画を得意とし、後世の文人画に絶大な影響を与えた。この作品は高所から山々を見下ろす視点で描かれており、重なり連なる山々が披麻皴と点苔法で表現されている。鬱蒼と生い茂る樹木には生気が満ちている。
董其昌(1555-1636)は「董北苑龍宿郊民図。真蹟。」と評価している。跋文によれば、董其昌は万暦丁酉(1597)にこの絵を潘光録から入手している。潘光録は潘允端(1526-1601)の三男である潘雲夔のことで、松江の書画鑑賞家莫是龍(1537-1587)の娘婿でもある。莫是龍は宋元名家の作品を収蔵していただけでなく、南北宗山水論の創始者でもある。この作品は莫是龍の収蔵品だったと思われ、松江派が董源を尊び、重んじていたことも知れる。
元 趙孟頫 鵲華秋色
- 10.5-11.15(期間限定展示)
王世貞と項元汴(1525-1590)は二人とも書画の鑑賞に精通していたが、意見が食い違うことも多かった。沈徳符(1578-1642)は『万暦野獲編』で王世貞のことを「大賞鑒」と称している。王世貞は、眼力が衰えた項元汴は財力にものを言わせて法書や名画を強奪しているだけだとした。項元汴は詹景鳳(1528-1602)に、王世貞兄弟は瞎漢(盲目)で、ずいぶん前に世を去った文徴明(1470-1559)だけは両目(鑑識眼)を持っていたが、今は自分と詹だけが鑑蔵の巨眼だと言っている。
この絵は趙孟頫(1254-1322)が1295年に周密(1232-1298)のために描いた作品で、華不注山から始まり、最後に鵲山が描かれている。中段には川面が広がり、大きく開けた平遠な視界へと繋がっている。その間に茅葺の家屋や漁師の姿が見え、静けさを湛える穏やかな雰囲気が醸し出されている。
明 仇英 倣小李将軍海天霞照図
- 第2期 12.28(水)-3.21(火)
濃厚な青緑色の山水が夕日を浴びて光を放ち、まるで仙境のようである。巻末に呉寛(1435-1504)と文徴明(1470-1559)の跋があり、項元汴(1525-1590)の依頼で仇英(1494頃-1552)が李昭道(675-758)の作を模写したものだと記されている。呉寛が亡くなった時、仇英はせいぜい十数歳で、項元汴はまだ生まれてすらいなかった。したがって、この絵も題跋も偽物である。王世貞の記述によれば、厳世蕃(1513-1565)は某太守を通して呉城の湯氏が所蔵する李昭道の「海天落照図」を奪い取ったという。また、湯氏は仇英に模写をさせたことがあり、それを後に王世貞に売った。当時はこのような青緑山水画の偽作が巷に溢れていた。本作の題は「海天霞照」だが、この絵を参考に、王世貞が所蔵していたという類似の作品が想像できる。