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巾箱本五経

巾箱本の起源は、いつ、誰が、どのような本なのか等は、今でも詳細は明らかではありませんが、最も早期、具体的に巾箱本の名称の文献に話が及ぶのは《南史‧斉衡陽王鈞伝》です。記載によると、南朝の斉王-蕭鈞は、曽て「自ら五経を細かに書き写し、部を一巻にまとめ、巾箱の中に置き、遺忘に備えた」とあります。所謂「五経」とは、前漢の官学が定めた《詩》、《書》、《礼》、《易》、《春秋》を指します。蕭鈞が手書きした巾箱本については、側に仕えて学問を教授する賀玠も好奇心に耐えきれず、「殿下の家には典籍が数多くあるのに、どうしてまたハエの頭の様に細く書いて、別の巾箱に置くのですか」と聞きました。すると蕭鈞は、「巾箱には五経が入っている。何かを調べるのも容易であるし、一更(午後7・8時から2時間)書き写すと、永遠に忘れないからだ」と答えたそうです。この話が広がると、諸王は起ちあがり、競ってこれを真似、遂に「巾箱五経」の故事が出来上がったのです。

五経は唐代初期まで、広く世に伝わり、学官は《春秋》を《左伝》、《公羊伝》、《穀梁伝》に、また《礼》を《周礼》、《儀礼》、《礼記》にそれぞれ分けました。三伝、三礼、及び元々ある《詩》、《書》、《易》を合わせて「九経」と称しました。唐代文宗皇帝の開成年間、王朝は《論語》、《孝経》、及び《爾雅》と「九経」を合わせて称した「十二経」に関わりました。南宋に至り、宋台の儒学者は、更に《孟子》を合わせ、儒家典籍の中の「十三経」を形成しました。経典の定まった制度と確立により、古代の文人巾箱にも「九経」と「十三経」が現れ、今日もなお保存され続けています。

  • 五経

    明嘉靖間(1522-1566)復宋刊巾箱本

  • 五経

    清乾隆十一年(1746)武英殿刊古香斎袖珍本

  • 九経

    明覆宋刊本

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