東洋と西洋が交易をしていた頃、中国は、一体どんな姿だったのでしょう。〈明人出警図〉の中では、東洋の帝王のイメージを王権の極致の代表と記していますが、精緻な文化の発展の核心は首都にはありませんでした。江南の水網都市の中心に位置する蘇州は水運が発達していた為、経済にゆとりがあり、全国屈指の大都市でした。当地の文人の文化を鑑賞する能力は高度な発展を遂げ、また物質消費もくまなく行きわたり便利であった為、蘇州は時代の好みの指標となり、気風も豪奢そのものでした。邸宅の庭園、古美術骨董品、当時の朝廷が製作或いは輸入した舶来品のいずれも呉州の地の好みから、上品なものと俗っぽいものを区別したため、市場にも模倣品が溢れることになりました。こうした事情は全て、文震亨著の《長物志》に反映されています。十七世紀以降の絵画の風格もまた紛然且つ多様で、例えば、沈士充のロマン夢想、また董其昌の純化の形式が挙げられます。明・清の王朝が交代した頃、(蘇州の)繁華は地に落ち、芸術もまた亡国の人のはけ口となり、とりわけ斬新な視覚元素が目立ちました。また戦乱が江南に損失を与えた様子は、旅をしていた外国人の眼にも写っていました。