地域住民の力
地域住民たちが使用した建材や技術は比較的簡易なものでしたが、設計は現地の地形や資源に合わせて調整され、絶えず変化する自然環境に適応したものでした。これらの「土城」は自衛のためだけでなく、政府に抵抗する拠点としても利用され、住民が力を合わせて一致団結した象徴でもあり、当時の台湾社会の多様性を示しています。
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為攻克大里杙情形恭摺馳報事福康安、海蘭察
乾隆五十二年十一月廿五日 -
大里杙之戦図
平定台湾図
清乾隆朝 銅版画「大里杙」は現在の台中市大里区の旧地名である。乾隆朝晩期に活動した反清勢力の領袖だった林爽文とその一族の主要拠点で、林一族は自衛のために土城を築いていた。清軍の将校福康安らが軍を率いて進攻しようとした時、その地を見て「東は大山、南は川に面しており、築かれた土城には大砲が隙間無く並べられ、内部には竹柵が二重に設置されている。城外には溝と土手が重なっており、極めて堅固な防衛体制となっている。」と述べており、内部に大量の物資があったようである。「大里杙戦図」の描写と合わせて見ると、地域住民が協力して築いた堅牢な土城の様子が窺える。
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斗六門之戦図
平定台湾図
清乾隆朝 銅版画「斗六門」は現在の雲林県斗六市にあった。清代にこの地を訪れたのなら、土城に囲まれた、現在とは全く異なる眺めが目に入ったことだろう。清代の台湾では叛乱や、民族間の闘争が発生することがあり、地域住民らは土城を築いて自衛をした。林爽文、戴潮春などの叛乱が起こった際、官民いずれも重要拠点の斗六門を争奪しようとした。この図を見ると、夯土(版築)や木柵、刺竹などを交互に組み合わせた防御設備が見て取れる。
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為親督兵勇沿途勦辦直抵彰境進搗逆巣水陸両軍連日大捷事
『月摺档』収録 同治二年十一月下
新授台湾道兼理学政丁「大甲」は現在の台中市大甲区のことで、交通の要所だった。同治年間に発生した戴潮春の乱では、清軍と戴軍がこの地で激烈な戦闘を繰り広げた。台湾道丁曰健の奏陳により、当時の大甲地区には防衛を目的とした土城が築かれていたことが知れる。