激動とためらい
統治政策が大きく変動し、施策にも躊躇いが生じる中、台湾府城、鳳山県城、諸羅県城、彰化県城、淡水庁城(竹塹城)が徐々に設立されていったのは、概して清朝政府の台湾西部への支配力を示しています。しかし、築城の際は何度か混乱が起こり、課題も生まれました。
-
奏報台湾府城建築木柵情形
巡視台湾監察御史禅済布
雍正三月三月十六日2025年は府城(台南)建「城」300周年にあたる。建城年代は雍正3年(1725)3月に巡視台湾監察御史禅済布が上奏した「奏報台湾府城建築木柵情形」摺に依拠する。この摺には、自身が台湾の文武官を率いて建設計画を進めて寄付も行ったところ、地元民も共鳴してくれたと、事の顛末が詳細に記されている。最初に建設された城壁は木柵で囲ったもので、長さ2千丈(約2km.)を超えていた。また、多数の望楼と大砲で防御を固め、四つの門にはそれぞれ高大な門楼が建設された。
-
奏為查明閩省各属城垣完固及飭属辦理縁由摺
福建巡撫定長
乾隆廿八年二月十五日統治の拡大と城の増設にともない、18世紀前期になると、台湾西部の平原に五大拠点─台湾府(附郭)・鳳山県・諸羅県・彰化県・淡水庁が徐々に設立された。各城池の城壁は主に刺竹と木柵で囲うか、夯土(版築)で作られていた。福建巡撫定長はこの奏摺に次のように記している。「台湾府に属する台、鳳、諸、彰の四県についてですが、このあたりの砂混じりの土はゆるく、レンガを積んだ城壁も耐久性が低いので、木や竹を植えるか、土を固めて作るなど、その城に最適の方法で修築しており、防衛に役立つでしょう。」
-
重建台湾郡城図
重修台郡各建築図説
清乾隆朝 紙本冊頁着色府城は清代台湾における最も重要な政治、経済、文化の中心だった。「重建台湾郡城図」は『重修台郡各建築図説』に収録されている絵図の1枚目で、乾隆年間の台湾府城の全体像を紹介している。台湾知府蒋元枢は上を東、下を西として丁寧に描かせており、1770年代中葉の府城が刺竹と木柵で囲われた「半月沈江」であることがわかる。西側には城壁がなく、大江内海に面している。木柵の城壁は防衛力が弱いため、蒋元枢は敵楼や砲台などを増設して防衛力を強化した。