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外国勢力への対応の変化

清代晩期になると、外来勢力の脅威に対応するため、政府は積極的に新しい城池の建設を進め、特に恒春と台北、省城(現在の台中)の三箇所が要衝とされました。恒春県城の建設により台湾南端への支配が確固としたものになったのです。新興の経済の要所であり、防衛の重要拠点でもあった台北には近代的な工法が取り入れられ、フランスが台湾に侵攻した1884年に竣工しました。しかし、政府が建設した多数の省城は資金難のため、維持できませんでした。このほか、斗六や埔里社庁などへの城の設置は、台湾に対する支配力の強さが反映されており、清朝政府の外国勢力への戦略調整や積極的な対応も示しています。
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  • 為履勘琅𤩝形勢擬即築城設官以鎮地方而消窺伺

    『月摺档』収録 光緒元年正月上
    福州将軍文煜等
    光緒元年元月十二日

    同治13年(1874)、日本軍による台湾侵攻の衝撃を受け、清朝はその翌年に鳳山県を分割し、率芒渓(川)以南の地に別の県を設置することにした。そのため、沈葆楨などが琅𤩝(現在の恒春地域)の実地調査へ向かった。この奏摺では車城南方の猴洞地区での県治建設や、県名を「恒春」とすることなど、詳細な計画を報告しており、後に清朝宮廷から同意を得ている。築城工事は各地方からの支援を受けて、分割して建設することになり、光緒元年(1875)に着工し、光緒5年(1879)に落成した。現在、恒春城は国定古跡となっており、各城門が欠けることなく保存されている唯一の城池である。

  • 為台北口岸擬建府治統轄一所三県以便控馭而固地方

    『月摺档』収録 光緒元年七月上
    福州将軍文煜等
    光緒元年七月十四日

    台湾南端だけではなく、清朝宮廷も光緒元年(1875)に沈葆楨などに北部での「地域の管理と安定を図るため、3県を統括できる府城建設」という提議に許可を与え、大稲埕と艋舺の間に台北府が設置された。築城工事は知府の陳星聚が責任者となり、光緒8年(1882)に着工し、光緒10年(1884)に竣工した。2024年に台北府城建設140周年を迎えた。台北府城には五つの門があったが、西門は失われている。残された四つの門は国定古跡に指定されている。

  • 為籌度台湾情形暫難改設省会據実敬陳恭摺事

    『夷務始末記』収録 光緒十一年十、十一、十二月
    劉銘傳
    光緒十一年十月廿三日

    光緒11年(1885)、清朝宮廷は台湾が南洋への玄関口であることを考慮し、新たな省の設置を命じた。しかし、台湾の政務を担っていた劉銘伝は当初、資金調達などを考慮して、「為籌度台湾情形暫難改設省会據実敬陳恭摺事」と題した奏摺を進上し、省設置が困難である複数の理由を述べ、宮廷に対して慎重な検討を求めている。しかし、最終的にこの要請は実行され、省城は彰化県の橋孜図(現在の台中市中心部)に定められた。

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