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宮廷の大楽団

 歴代の皇帝はどのように御用楽隊を組織したのでしょうか?「雅楽」や「燕楽」はどのように宮中で演奏されていたのでしょうか?中国の宮廷で演奏された雅楽は周公の「制礼作楽」時代から受け継がれてきたもので、代表的な典礼音楽は編鐘や編磬、笙、簫などの楽器で構成されていました。それにより中国伝統音楽の「五声」・「六律」・「八音」が形成されたとの説もあり、この音階は清代まで使用されました。清朝宮廷の礼楽制度の多くは明朝から継承したものでしたが、乾隆7年(1742)に宮廷音楽の演奏を専門に行う機構「楽部」が設立され、祭祀や朝会、酒宴などの音楽演奏と、楽器の選定や音律の調整(or楽器の調律?)などを担当していました。宮廷で重要な大典が行われる際は中和韶楽が演奏され、それには清朝宮廷三大行事(元旦・冬至・万寿節)、皇后による親蚕礼及び躬桑礼などの大切な儀式も含まれ、乾清宮で催された千叟宴は清朝宮廷音楽の恒例行事の一つでした。

展示作品 1

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  • 笙鏞迭奏図・簫韶九成図

    『欽定書経図説』卷五収録
    清光緒31年(1905)
    総理各国事務衙門朱墨石印本
    故殿013404

     舜帝 の時代、祖先を祭ったり、客人をもてなしたりするのに「大韶之楽」を用いるのは美徳であり、神々と交信することでもあった。「韶楽」とは、鳴球(玉磬)や琴、瑟、笙、管、鼗鼓、鏞(大鐘)、柷、敔などの楽器からなる演奏を指す。尚書には次のように記されている。「鳴球を叩き、琴瑟を弾きながら歌えば、祖先もこの場にやって来よう。虞賓は座席におり、諸侯は祭祀を行う者を助け、互いに礼儀正しく接している。明堂の下では管と鼗鼓が演奏され、音楽の始まりには柷を打ち、終わりには敔を打って合図とし、笙と鏞はゆるやかに奏でられる。鳥や獣たちも踊り始め、『簫韶』が9回奏でられると、一対の鳳凰も舞い飛んでくる。」

  • 編鐘(朝会用の楽器)

    皇朝礼器図式 卷八
    允禄等奉敕撰
    清乾隆31年(1766)武英殿刊本
    故殿024315

    『皇朝礼 器図式』は乾隆24年(1759)に成立し、乾隆31年(1766)に再編集されて内容も補足された、清代礼器図の専門書である。どの絵図も細部まで丁寧に描き込まれており、各礼器本来の形を可能な限り再現しようとしたのがわかる。本書の第8巻と第9巻は「楽器」についての巻で、楽器の絵図が82幅あるほか、各楽器のサイズや材質、表面の模様などが詳細に記されている。また、清朝宮廷で行われる楽器演奏の場面ごとに分類した絵図もあり、朝会や鹵簿、巡幸、祭祀、耕耤、燕饗(宴)、凱旋などで使用された楽器が列挙してあり、それには中国伝統楽器だけでなく、少数民族の楽器も含まれている。

    『周礼』の「春官」には、鐘師が編鐘を打ったとの記述がある。『隋書』の「音楽志」によれば、編鐘とは小鐘のことで、上下に8個ずつ、計16個が律呂の順に簴に吊り下げられたという。中和韶楽の演奏は「楽始於鐘、止於磬」(音楽は鐘で始まり、磬で終わる)とされ、清代になると、「編鐘」は祭祀や朝会、燕饗で奏でられる中和韶楽用の楽器と定められた。

展示作品 2

康熙58年(1719)、闕里(山東省曲阜県内)にて「中和韶楽」が公布され、孔廟(一般に文廟と言われるが、夫子廟や至聖廟、先師廟とも)はその規定に合わせて音楽を演奏するようになった。この着色図は乾隆年間に成立した書物に収録されているもので、文廟で用いられた楽器が細部まで丁寧に描かれている。「図説」には、「柷1、敔1、編鐘16、編磬16、琴6、瑟4、笙6、簫6、壎2、篪4、排簫2」など、演奏時に使用する楽器についての説明がある。このほかに鏞や龍篴、鼗鼓、楹鼓、足鼓、搏拊、鼖鼓、籥、翟、手版、麾、節などの楽器も文廟での演奏に用いられていた。
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展示作品 3

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  • 編磬 10点1組 (1点展示)

    戦国(紀元前475年—紀元前221年)
    購玉000014

    「石磬」は中和韶楽の演奏に欠かせない楽器で、一つの簴に16枚の磬を大きさや厚さによって順に吊り下げてあり、叩くと違う音階の音を出すことができる。音の高低は磬の形状によって変わる。薄く大きな磬の音は低く、厚く小さな磬の音は高くなる。

    「石磬」の色は青みを帯びた灰色で、両端が切り取られたような形をしている。その部分の長さは不揃いで、ひもを通して吊り下げると、非対称的な見た目の美しさが際立って見える。

展示作品 4

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  • 祭祀楽懸位次図

    『欽定大清会典図』卷十八収録
    托津等奉敕撰
    清嘉慶18年(1813)武英殿刊本
    故殿012970

    「祭祀」は清朝宮廷の重要な典礼で、祭天と祭神、祭祖があり、それが更に大祀(圜丘や方沢、太廟、社稷、先師孔子などの祭祀を含む)と中祀(朝日や夕月、先農などの祭祀を含む)、群祀(火神や城隍、先医などの祭祀を含む)に分けられる。礼部が執り行う祭祀は80種近くあり、内務府が行う皇室の祭祀は十数種あり、重要な祭祀には皇帝も出席した。大祀と中祀では中和韶楽が演奏されたが、『欽定大清会典図』(巻二十)の「祭祀中和韶楽楽懸位次図」を見ると、使用された楽器の種類や位置がわかり、楽舞もあったことが知れる。演奏の規模に関しては、両者とも同じ種類の楽器が使われていたが、中祀で使用された楽器の数量と踊り手の人数は大祀より少なかった。

    祭祀の中和韶楽は、左側に鎛鐘1、編鐘1、建鼓1、右側に特磬1、編磬1が配置された。そのうち、左と右に壎各1、篪各3、排簫各1、笛各5、簫各5、瑟各2、琴各5、笙各5、そのほかに笏を持つ者が左右に各5人いて、この笏を持つ者が司章、つまり楽章を歌う者だった。最前列は左に柷1、搏拊1、麾1,右敔1、搏拊1。中央に楽舞生、左右に文舞生32人と武舞生32人、執節者が4人いて、舞生の前に立って舞いを導いた。

展示作品 5

「親蚕礼」とは、皇后自らが桑の枝を刈り、蚕事(養蚕)を行う儀式のことで、周の時代に始まり、代々受け継がれてきた行事である。中国古代の皇帝は農業と養蚕を重んじていることを示すために、毎年春になると、皇帝自ら田畑を耕し、皇后も養蚕を行った。清代になると乾隆9年(1744)に、北京の西苑に「先蚕壇」が建立され、孝賢皇后富察氏(1712-1748)による親蚕儀式が執り行われた。皇后は吉服を着た宮中の嬪妃や女性親族らを率いて、先蚕壇を訪れて親蚕礼を行った。その翌日、蚕壇の桑畑で採桑礼を行い、皇后が「躬桑」(採桑)する姿を示した後、観桑台に上がって大勢の妃嬪や命婦たちが桑の葉を採る様子を眺めた。本院所蔵「清院本 親蚕図(採桑)巻」を見ると典礼の様子がわかる。左側と右側に立つ内監が色鮮やかな旗を掲げ、金や簫、笛、笙、拍板などの楽器を演奏しつつ採桑辞を歌った。

皇后の親蚕では「禾辞桑歌楽」が奏でられた。使用された楽器は金2(俗称「鑼」)、鼓2、簫6、笛6、笙6、拍版(板)2で、祭壇の東西両側に立ち、笏を持って採桑辞を歌った。

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展示作品 6

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  • 寿辰歌舞曲目(満漢合璧)

    清光緒年間(1875-1908)
    故宮150711

    清代宮廷の朝会(または朝賀)は主に元旦・冬至・万寿(皇帝の誕生日)の三大祝賀行事を指し、皇帝の登極、頒詔、皇帝の大婚、及び毎月5日、15日、25日の常朝は太和殿で典礼が行われた。そこで演奏されたのは儀式的な性質の強い音楽で、皇帝の陞座と降座、宮殿へ戻る時にも中和韶楽が奏でられ、群臣が儀式を執り行う時は丹陛大楽が演奏された。

    清朝宮廷では皇后と皇太后の誕生日を「千秋節」と称し、寿辰朝賀礼には中和韶楽の演奏も含まれていた。この光緒朝の「皇太后寿辰歌曲」唱辞二十章は、おそらく千秋節朝賀で司章が歌ったものである。

展示作品 7

清朝宮廷で行われた最大規模の宴は康熙朝と乾隆朝の時代に計4回催された千叟宴である。1回目は康熙52年(1713)で、康熙帝60歳の誕生日を祝うために暢春園で宴が開かれた。2回目は康熙61年(1722)で、乾清宮で宴が催された。3回目は乾隆50年(1785)で、この時も乾清宮で宴が催された。4回目は嘉慶元年(1796)で、太上皇帝となった乾隆帝を祝うために寧寿宮の皇極殿で宴が催され、60歳以上の大臣や官員などが招かれた。出席者は千人を超え、非常に盛大な宴だったという。乾隆50年に乾隆帝が乾清宮で行った千叟宴では中和韶楽と中和清楽が取り入れられ、「乾清宮千叟宴楽章」が制定された。この宴の席順は「皇極殿千叟宴」と同様だった。この時の宴には親王や郡王、大臣、官員、蒙古貝勒、貝子、台吉、額駙、回部、番部、朝鮮国使臣、士商兵民など、60歳以上の者3千人が招かれた。
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展示作品 8

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  • 紫光閣凱宴将士図

    『平定金川図』収録
    清代
    平圖021207

    古代中国は出陣した軍が凱旋すると、皇帝は必ず出征した大臣や将兵らを労う宴を催し、王侯や大臣たちも出席した。そのような宴を「凱旋宴」と言う。この銅版画には乾隆41年(1776)に大小金川が平定された際、4月28日に紫光閣で開かれた宴の様子が描かれている。紫光閣は紫禁城西苑に位置しており、明代中期以来、皇帝が武挙殿試と閲射を行う場所とされ、乾隆朝に至ると、外藩と凱旋した将兵らのために宴を催す場所になった。

    この版画には、宴に出席する諸侯や大臣、出征した将兵たちが丹陛の左右に分かれて立ち、両側の大臣が紫光閣にやって来た乾隆帝の輿を跪いて出迎える様子が描かれている。上部の宮殿内には編鐘や編磬、琴、瑟、鼓、笛、笙、排簫、柷、敔などの楽器が配置されている。凱旋の宴では中和韶楽という儀礼的な音楽が演奏された後、娯楽性の高い音楽や舞踊が披露された。

  • 平定金川楽章清漢文合譜

    慶隆舞楽冊頁(八) 冊 
    清代
    故書000272

    本院が所蔵する内府泥金写本満州語及び漢語楽章は、『国朝宮史』「巻7・典礼3」によれば、乾隆14年(1749)に金川が平定されると、豊沢園にて催された宴で披露された「徳勝舞」(清代凱旋宴の舞)の詩歌は次のとおりである。「乾隆聖世、瀛寓乂康。元首惟明、股肱惟良。景運鴻昌、休徳茂著。統馭八埏、恵液遐布。金川小醜、蠢爾冥頑。惟時弗率,跳梁窮辺。用申天討、声罪執言。長駆駅駕、油雲斯屯。聖謨広運、決機万里。……」おそらくこの楽章は「紫光閣凱宴」で歌われたと思われる。

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