國立故宮博物院 国立故宮博物院

貴州の歴史と風土

明の永楽十一年(1413)、中央政府は貴陽府に貴州承宣布政使司を置き、正式に省を設け、十三行省の一つとしました。受け継いだり廃れたりした元代以来の少数民族首領による地方長官世襲土司制度は改められ、中央政府より派遣された漢の役人がその地を治めるようになりました。清の雍正・乾隆年間も「改土帰流」(土司・土官を改めて中央政府任命の地方官)にする政策)を積極的に推進し、治兵のために将軍を選び、征服し、投降・帰順させました。この為、数多くの政府当局の書類、史志伝記、地図をはじめ、資治術、風俗伝記が残されています。当博物院が所蔵する《職貢図》、《苗蛮図》等は、現地の民情風貌生活のあれこれが如実に描かれています。例えば撫臣の上奏文、或いは公文書の文献は、清朝政府の貴州少数民族に対する伝聞や印象を反映しており、互いに経験と施政理念に影響をもたらし、更に異なった角度から貴州省の部落の分布や風俗物産、文化教育、信仰、衝突や競争などの細かい事柄が記載されており大変貴重です。

貴州全省道里総図

清絹本彩絵

貴州全省道里総図
  • 右幅:縱276cmas 橫135.5cm
  • 左幅:縱276cm 橫135.5cm

この地図は、中国の伝統的な青綠山水画法で描かれている。大きな一幅の元来の絵を、真ん中からカットして右・左に表装したものである。方位は北上~南下、周囲は四方に至っている。全図の内容は、自然・人文・地理を描写しており、墨縄や色彩で山の形、水文を表している外、墨でピンク地の赤枠の中に、赤線は省・府・州・衛の境界を、墨の点線は道路や寺廟古蹟、及び府・州・衛・具体的な城壁など、清代の貴州省全域の基本的な姿をしっかりと記している。この他、特別府の首都の周辺の道路の道のりをはじめ、整然といて精緻に描かれている絵画の風格から推測するに、この図は、或いは康熙年間に一統志を編纂すべく命を下したことと、地方に命じて、地図を描き、都に送ることと何らかの関連があったのかも知れない。

職貢図

謝遂
清乾隆朝
紙本彩色

職貢図
  • 縦 38cm
  • 橫 1707cm

乾隆年間宮廷画家、謝遂が描いた《職貢図》第四巻には雲南・貴州等の省の辺疆民族七十八組の男女図像が収められている。上方には満文と漢文の図説が併記されており、該族の歴史をはじめ服飾と風俗などの特色を紹介している。花苗を例に取ってみると、画中の苗族の女性は藍色の地の袖幅の広いチョッキを着ており、チョッキの上には十二個の小さな方形の図案があり、袖にも同じような装飾が施されている。小さな方形の図案は、ぼやけていてはっきりとはしないが、図説によると、蝋染めで作られた、「花紋似錦」だそうだ。方形の図案で衣服を飾る習慣は、今でも花苗族の服飾の中に息づいている。図說は方形の図案については触れていないが、図案,図像自身がこの種の装飾の特色を物語っており、絵を描いたときに、恐らく他に、参考の絵があったに違いない。 また貴州黒苗族の部分は、図中に黒のスカートの苗族の女性が描かれているが、髷には三本の長い簪を挿し、襟ぐりや袖の周りは均しく赤・濃紺・藍色・深綠・綠の五色で装飾されており、文字の描写に似ているが、現在見られる黒苗族の衣裳の装飾とはやや距離がある。ここからも、《職貢図》の図像と図說の出所は複雑で、一方では想像の部分が含まれ、また一方では多くの貴重な昔の記録を保存している。

貴州牛皮箐地方汛防図

 

貴州牛皮箐地方汛防図

貴州の巡撫、舒常は牛皮箐の防備巡回の廃止願いを上奏するため、自ら現地に赴き、実地調査した後、上奏文による説明の他、防備見回り図を描き、皇帝の御覧に供した。この図は上が南で下は北、左が東で右が西になっており、中間の雷公地・荒蒿箐・欧收勇の地全てが牛皮箐内に位置し、数百里余りあまり綿々と続いている。南は八寨に連なり、西は丹江に接し、東は古州・都江に通じ、北は六庁の中の清江・台拱・橫亙に接近している。図は全て山水画法を以て牛皮箐一帯の地形を描いており、各陣営を結ぶ道路は赤い点で表示している。図の上には黄色の札を貼り、各陣営に駐屯する軍の人数や雷公地までの距離を記し、牛皮箐内の三ヵ所の開墾はすべきではない理由を説明している。

牛皮箐一帯 実状調査結果の上奏報告

貴州巡撫舒常
乾隆四十四年十二月二十一日

奏報查看牛皮箐一帯之実在情形
  • 高さ 25cm
  • 幅 11cm

貴州巡撫の舒常は、十一月四日に出発して牛皮箐一帯の調査に赴いた。彼は実際にこの地に足を踏み入れて、雷公地等の地が、地勢はやや平坦であるが、石や土砂が多く、竹、樹木が鬱蒼と茂っている上に晴れの日が少なく、気候も寒く、土地を耕して種を植える時間も少ないだけではなく、飢えても収穫ができないでいる。兵士達労働力はいたずらにむなしく費やしており、三年間、開墾を試みたものの、全く効果がない事を知った。従って、民の気持ちから開墾を停止し、動員された人々と兵士五十名を鶏講に撤退させて防備に当たらせるべきであると書かれている。この上奏文を目にした乾隆帝は上奏文の末尾に「決議の如くせよ」と記し、旧制に戻すことに決定した。

釋文

舒常 查看牛皮箐情形
奏 片一 圖一
十二月廿一日

貴州巡撫臣舒常謹
奏,為查看過牛皮箐實在情形,請復舊制,以裨地方,仰祈
聖鑒事。竊臣於十一月初四日,自省啟行前往牛皮箐一帶巡查,業經恭
摺奏
聞在案。查丹江營所屬之鷄講汛,距丹江三十里,分駐守備、千總、把總
各一員,外委二員,帶兵二百名,在汛防守。乾隆四十二年,經前撫臣
裴宗錫,因牛皮箐內有雷公地等處,地勢稍平,可以開墾,議
令撥派附近之震威等堡屯軍餘丁,赴箐認段,試開該處,相距
鷄講四十餘里,
奏請抽撥鷄講汛千總一員,帶兵五十名,分駐雷公地,以為寓防於屯之計,奉
旨允准行在案。茲臣親歷該箐,細加查察,介在台拱、八寨、古州、丹江、青江、
都江六廳之中,四面重巒複嶂,峭壁懸崖,自鷄講由山路入箐,盤
曲攀援而上,至雷公地審視,周圍不足二里,因在山凹之內,似覺稍
平,然皆石多土少,竹木叢生,現在砍伐焚燒尚未過半,仍存根蒂固結。
其中莫能掘挖,間有墾出隙地十餘處,所種苦荍已於秋間收
穫,多係秀而不實,其雷公地之下,歐收勇、荒蒿箐二處,平地尤窄,
亦係竹木陰森,全未燒墾。查四十二年,尚有屯軍餘丁六十餘名,裹糧
入山搭篷試墾,四十三年,僅有三十餘名墾種,今歲則止一十餘名入山,而
土性更為瘠薄,秋穫僅敷籽種。臣視其現存荍梗,實係細短稀踈,
推求其故,咸稱箐內陰翳森寒,四時難逢晴日,烟霧迷濛,每年四
月方斷雪凌,八月即降霜霰,是以氣候逈殊,實難開荒成熟。復詢
撥駐該處弁兵,亦稱住守雷公地汛三年,皆係夏初始經丹江廳衛催
促屯丁入山墾種,未及暮秋即皆回去。又因有種無收,各丁畏縮不
前,以致邇年漸少,該弁兵等在汛亦不過徒守荒山,並無所事,現在邊
境敉寧,即有罪囚竄入,亦斷不能枵腹久藏,可無他慮。臣思,前任撫
臣裴宗錫議請墾山護汛,原欲開闢地利,裨益苗疆,今已試墾三年,
迄無成效,徒令屯軍餘丁空費工本,不能有收,似應酌順輿情,免其認
墾。現有篷寮數處,概令拆燬封禁,至於鷄講汛城,地居險要,附近
屯苗雜處約有千戶,原設備弁帶兵二百名駐守,本不為多,今又分撥
箐內,一無所事,是以有用之兵置之無用之地,應收原撥之千總一員,兵五
十名,撤回鷄講,照舊差操,以壯聲勢,而資巡防。至雷公地,既經駐兵三
年,未便置之不問,即責成鷄講守備、千、把,就近每月帶兵進山巡查一
次,並令丹江營參將,每季親臨箐內查察。又有六廳、九衛、各鎮協營,星
羅棋布於外,共相防範,自可永保無虞。惟是事關裁撤,恐臣一人見
識,有所未周,因查貴州提臣敖成、鎮遠鎮臣保成,皆於巡邊時曾經
親歷其地,復與札商,俱屬意見相同,似應仍復舊章,以資防守,實
於苗疆要地有裨。臣於本月十六日旋省,沿途經過廳縣塘汛,以及
城鄉村寨,留心體察,民苗均極寧靜,共樂豐盈。綠營官兵甚屬
整齊嚴肅,文武各盡職守,並無懈弛。所有臣巡察過牛皮箐情形
暨酌議籌辦裁撤緣由,理合據實繕摺奏
聞,謹另繪圖貼說,恭呈


御覽,伏乞
皇上睿鑒,
訓示遵行。
謹奏。
四十四年十二月二十一日,奉
硃批:如所議行,欽此。

苗蛮図

不著絵人 清写絵本
四十冊葉

苗蛮図
  • 画心:縱 21公分 橫 27公分
  • 冊頁サイズ:縱29公分 橫32.5公分

《苗蛮図》は現存する多くの《百苗図》の一つである。その初版本は一般的には清の嘉慶初年、陳浩の作、《八十二種苗図並說》から始まったとされている。內容は清代貴州省の境域内の現在すでに名が定まっている彝族・苗族・侗族・白族・仡佬族・布依族、及びその一派の系列の地元に於ける民族画集である。《苗蛮図》は計40見開きで、それぞれ貴州境域内の民族の活動の様子を細緻に表現している。その中の第三十六幅は空白に小楷文字で、長短が一致していないとの説明が書いてある。文中の、「興義府」・「貞豊州」・「平越州」等から推し量るに、この画集が描かれた年代は、嘉慶二年(1797)以前である。またこれと比較して陳浩の《八十二種苗図並說》から、元々の画集が上下2冊あった事を知ることができる。

奏聞遵旨密備黔省赴閩官兵事

雲貴総督富綱
乾隆五十二年八月十五日

奏聞遵旨密備黔省赴閩官兵事
  • 高さ 21.5cm
  • 幅 10cm

乾隆五十一年(1786)十一月、台湾では大規模な林爽文抗清事件が勃発し、全台湾を揺るがした。事件は年を越えても終わらず、予定の時期を大幅に超えた。乾隆帝は大臣の建議の下、山地での作戦の経験を有する貴州等の土民兵を集めて、台湾での戦いに協力させた。乾隆五十二年(1787)八月十五日、雲貴総督富綱(1737-1800)が上奏して曰く、「すでに2000人の兵隊を徴用し、かつての戦いで功を上げた勇ましい兵士をトップとして、全ての軍備、火薬もすでに整えた。四隊に分け、船に乗り下っており、広西、広東を経て福建に至った後、海を渡り、即戦闘に協力する」と。

安順読書山華厳洞図

劉峨士
二十世紀

安順読書山華厳洞図

劉奉璋(1914-1952)、字は峨士、天津の人。民国二十七年(1938)初頭、故宮は第一回となる西遷を果たし、文物を安順の華厳洞に運んだ。荘厳が安順辦事処を成立した際、劉奉璋を招致し、台湾台中に遷るまで勤務した。民国三十三年(1944)、文物を北遷。四川の巴県飛仙岩に至る期間、荘厳は劉奉璋に委託してこの作品を製作し、華厳洞にて国宝を守った歳月を記念して、前後して馬衡など、十数名の人物に、署名と跋文を要請。この中の多くの人物が故宮との関わり合いを持っている。作品は運筆が流暢、筆力雄勁であり、墨色の濃淡も最たるもので、配置も極めて変化に富んでいる。山石枝幹は馬遠や夏珪の筆意を帯びている。華厳洞の自然のありさまと人文の趣が、この作品の中に生き生きと描かれており且つ美しい。当作品は、荘因・荘喆・荘霊昆仲氏より寄贈されたものである。