精絵形模
銅器の分類と記録
銅器は殷朝と周朝で大量に制作され、盛んに使用されました。銅器の収集と書物の編纂、研究は宋代から始まりました。銅器の記録法には、大きさや重量、銘文の模写または伝拓、銅器を描いた絵図などがありました。銅器を知るための第一歩は、その器物固有の名称と形状や外観を結び付けることにあります。宋代の編集法は器形ごとに分類して1巻ずつまとめてあり、図鑑として有用なものでした。乾隆帝の『西清古鑑』(1755)の時代になると、銅器の名称から判断すれば、書中に掲載された銅器は70種類に達しており、それらの銅器は様々な素材で模倣された古器の象徴にもなっています。こちらのセクションでは、今日まで蓄積された研究成果を元に、乾隆時代の宮廷銅器コレクションを同じ様式ごとに分類して展示します。時代や地域の違いによって、個々の器物に生じた風格の変遷が見て取れます。
各種銅器にはその種類を示す固有の名称がありますが、器類に対する認識の変化に随って、その名称も変更されました。銅簋を例に見てみましょう。宋代から清代乾隆年間にかけては「敦」または「彝」と呼ばれていました。嘉慶年間になると、金石学者が銅簋の銘文にある名前「」(𣪕)を、文献に記載のある「簋」と解釈し、「彝」は総称であるとして、この種の銅器の名称が明確に定められたのです。
匜は盉に代わって注水器とされ、水を貯める器や盤と合わせて使用されました。西周晩期頃に登場した器です。動物形の器身に蓋が付いている「鳧叔匜」のルーツは、おそらく觥形の器だと思われます。この二つの器の形や様式は継承されつつ転化しました。宋代から清代に編纂された銅器図録で、觥と匜があまり区別されていないのはこうした理由があるからです。
器身に紅銅を象嵌した装飾があります。口縁から腹の下方まで7層の図案があり、それぞれ三角形の模様を境として、格子状に配置されています。上から下へ2層の鳳鳥紋、4層の一角神獣紋があり、最下層は写実的な鹿紋で装飾されています。
俗に流れることを防ぐため、乾隆帝は銅器を模倣の対象とするうよう提唱しました。模倣の対象となった銅器は、鼎や尊、壺が中心で、玉器や竹彫器、掐絲琺瑯器などが作られました。