百貨聚珍
明朝晩期の江南は、市場が活発化し、大衆の骨董品や贅沢品に対するニーズが日に日に増加しました。鑑賞に対する知識も大いに求められ、それが出版の発展をもたらしました。各種のモノの鑑賞書籍、例えば《陽羨茗壷系》、《方氏墨譜》等のコレクションを鑑賞する書籍の出現は、こうして出来上がった文化現象なのです。
王公貴族は自らが好む風格に沿って器物をあつらえ、柄にもなく風流人ぶる人たちは、古代の図録に記されている三代銅器を追い求め、巷の工房の商店も自家製の商品を売り出しました。手芸に秀でた匠、例えば磁器の名家周丹泉、銀細工の匠-朱碧山、玉の匠-陸子剛などは、各々の技芸の一派を成し、市場に於いて競り争いのターゲットとなりました。しかし、真作は高価なため手が届かず、鑑別する能力を持っている人も少なかったため、市場の需要に迎合して、書画や器物の模造品が大量に出回り、ついにそれが主流となり、鑑賞の書に書かれている文人の理想とは大きくかけ離れてしまいました。
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明 嬌黃錐拱獸面紋鼎
周丹泉は十六世紀末に活躍した骨董品収集界の模造の名手です。伝えるところに依ると、ある日、周丹泉は唐太常(1571年の進士)の家で、定窯白瓷三足圓鼎の文物を目にしました。そこでその家の主人から借りて鑑賞し、同時に細かくその文様を写したのです。ほどなくして、本物とそっくりの模造品が出来上がりました。その上、その模造品は本物と見分けがつきません。その結果、本物の作品の持ち主は、これを愛して止まず、模造品を買い上げて副本としたそうです。当作品は同様に三足圓鼎の造型で、底部には「周丹泉造」の鑑識がありますが、これが周丹泉の手になるものだと言う、確実な証拠がないため、展覧中、私達は受け売りの故事に従い作製された名家の商標として見ることにしました。