筆記小説によれば、明代嘉靖年間の宰相厳嵩(1480-1567)と息子の厳世蕃は北宋時代の画家張択端の「清明上河図」を切望し、官員の王忬(1507-1560)が所蔵していた「清明上河図」を自分たちに譲るよう強要したそうです。そこで王忬は画師の黄彪(1522-1594以降)に模写させた複製品を宰相に献上しました。厳父子はその絵をとても気に入って大切にし、自身が収蔵している書画作品中最上の作としました。その後、表装師の湯臣が王忬から賄賂を脅し取ろうとして失敗し、王忬が厳氏に贈った絵は偽物であることを暴露しました。それを深く恨んだ厳父子は理由をでっち上げて王忬を陥れ、極刑に処したのです。
この「絵が招いた禍」の故事には版本が多数あり、登場人物も宰相や官員、画師、表装師など、階級も複雑です。黄彪が模写した「清明上河図」は「蘇州片」の中で最も人気の高い題材で、各階級の人々が「古物熱」にうかされて夢中になっていた当時、「偽好物」商品の需要も大きく高まっていたことを象徴する出来事だと言えるでしょう。
明 黄彪 画九老図
- 形式:卷 絹本着色
- サイズ:縦 27.2 cm 横 193cm
蘇州出身の画家、黄彪(1522-1594以降)は臨模を得意としていた。言い伝えによれば、黄彪が模写した「清明上河図」が、北宋の張択端の真跡として、時の権力者厳嵩(1480-1567)と厳世藩父子に献上されたという。黄彪は素性が明らかな数少ない「蘇州片」画家の一人で、「蘇州片」を代表する画家とみなされている。
万暦22年(1594)に制作された本作は、黄彪自身の題識がある、唯一の現存作品である。その当時、黄彪はすでに74歳の高齢だった。本院所蔵の劉松年「会昌九老」と全く同じ構図となっており、黄彪が手がけた古画臨模の一例として挙げられる。題識によれば、黄彪は絵画と世の盛衰を結び付けて考えており、「九老図」の再制作を「継絶」とみなしている。これまでの伝統を守り、継承しようという強い使命感がある。
伝宋 張択端 清明易簡図
- 形式:卷 絹本着色
- サイズ:縦 38 cm 横 673.4cm
巻末に立つ柱状の石に「翰林画史臣張択端進呈」と記されている。「孫好手饅頭」や「潘家黄耆円」など、多くの商店の看板が『東京夢華禄』記載の汴京の店舗名と一致する。しかし、画中に見える煉瓦を積み上げた塀は北宋時代にはなく、山石と樹木の描き方には仇英の影響が感じられる。家屋や宮観に使われている青と緑、朱色の組み合わせは蘇州片によく見られるもので、王世貞と厳世藩の偽印まであることから、南宋時代の汴京を描写した文章をもとに、明代後期に制作された絵と推測できる。その一方で、「絵がもたらした禍」として知られる、王世貞の父親と厳嵩父子の間で起きた揉め事を強引に結び付けた上、当時の繁華街の情景まで取り入れている。画家が工夫をこらして描き上げた明版「清明上河図」である。
人物は細部まで丁寧に描写されており、多種多様な商店や当時の活動も見られ、面白味のある作品となっている。正しく「蘇州片」の佳作である。