インドの仏教とチベット土着の宗教「苯教」(ボン教)が融合したチベット仏教は15世紀からしだいに隆盛となり、モンゴル族とチベット族の暮らしや思想の一部となり、満州族の信仰にも影響を与えました。チベットの寺院は信仰の中心であるだけでなく、地方経済と行政の要所でもあるため、ラマや王侯貴族などが献上した品々は逸品ぞろいでした。また、仏教法器を献上品としたことは、チベットから贈られた丹書克では常に皇帝を「曼殊師利」と尊称していたこととも呼応します。別の視点から見ると、チベット仏教を敬う清代皇帝の姿勢は、チベット仏教の影響力を非常に重視していたこと、尊重せずにはいられなかったことを示しています。
嘎布拉の数珠
- 乾隆45年(1780)班禅額爾尼徳(パンチェン・ラマ)からの献上品
- 清 18世紀
- チベットの作品
念珠は数珠とも言われ、仏教だけでなく、イスラム教とカトリックでも読経や咒を唱えたり、名を呼ぶ際に修行を助ける道具の一つとして使われる。この念珠は乾隆45年(1780)にパンチェン・ラマ6世(班禅六世)から贈られたもので、ちょうど乾隆帝70歳を祝う年にあたり、パンチェン・ラマ6世は7月に熱河避暑山荘を訪れた。清朝は特別にパンチェン・ラマ6世のいる札什倫布寺に倣って須弥福寿寺を修繕し、乾隆帝は8月6日と24日に須弥福寿寺に参拝した。1751年に清朝は政治的権力を有したダライ・ラマ7世(達賴喇嘛7世)と冊封関係を結び、それ以降、ダライ・ラマは定期的に清朝皇帝に謁見しなければならなくなり、皇帝の誕生祝いなどでも都を訪れた。パンチェン・ラマ6世は清代に自ら都へ赴いた大ラマ三人の内の一人で、当時これは一大事とも言える出来事だった。この念珠は人骨で制作されており、間に蜜蝋や珊瑚の仏頭珠、ラズライトの仏頭塔のほか、トルコ石や水晶、金銀の金剛杵などで装飾されている。18世紀のチベット製念珠の荘厳な美しさが見られる。
青金石仏鉢(皮箱付き)
- 乾隆己卯(24年)御題
- 清 18世紀
- チベットの作品と思われる
この色鮮やかな青金石鉢は丸みがあり、荘厳な雰囲気が漂う。収納用の皮製盒のふたに乾隆乙亥(20年、1755)にジュンガル部(準噶爾部)を平定した際に得たものと記録されている。以前、ジュンガルがチベットにいた頃に入手したものと思われ、乾隆帝は鉢に満州語と漢語、モンゴル語、チベット語で文字を刻させている。モンゴル系民族のジュンガル部は17世紀に興り、イリを首都としてチベット仏教を信奉した。その後、ジュンガル軍はチベットに侵攻してラサを占領し、チベットを3年(1717-1720)ほど統治した。乾隆6年(1741)、乾隆帝はモンゴルの哲布尊丹巴に鉄鉢(ボクドハーン宮殿博物館蔵)を与えたが、その様式は本院所蔵の「炕老鸛翎鉄鉢」と等しい。「炕老鸛翎」は鉄に青紫色をつける手法のことを言い、『雍正朝活計档』にも「炕老鸛翎色」の食器について幾度も記録されており、青金石(ラズライト)特有の色に着目し、「炕老鸛翎鉄鉢」の造形に倣って制作されたものである可能性が高い。
銀壇城(五色の哈達付き)
- 土観呼図克図などからの献上品
- 清 19世紀
- チベットの作品
この銀壇城には赤、青、黄、白、緑─五色の「哈達」(ハータ)と言われるリボン状の絹ひもがついている。青海佑寧寺の駐京ラマ6世土観呼図克図(1839-1894)が慈禧太后の誕生日に献上したもの。壇城は仏教世界を象徴する。全体に隙間なく波模様が彫刻されており、中央にある4層の方形の台は宇宙の中心である須弥山を表している。一番外側を取り巻くのは鉄囲山で群山の四方に一つずつある城門は四大洲を表している。城門の円形と三角形、月形、方形は東勝身洲、南贍部洲、西牛貨洲、北俱盧洲を表し、海面をぐるりと囲む八宝と四方位の月、聚宝盆、日、満意牛は仏陀の供養のためにある。壇城の側面上下には珊瑚とトルコ石がはめ込まれ、十字形の装飾となっている。丹念な作りで文様の装飾法も美しく整っているが、18世紀チベットの作風とは異なり、漢地の風格が混交している。