民国十四年(1925)、政府は清朝宮廷内の文物を接収し、故宮博物院を設立して一般向けに展覧を開催しました。かつて宮廷に収蔵されていた皇室のコレクションが、世間一般への公開を通じて全国民が共有し、享受できるものとなったのです。民国二十年(1931)、九一八事変(満州事変)が起こり、日中戦争がこれに続いて勃発しました。故宮の収蔵品は希代の宝であり、伝承と保護が何よりも重要であると考えた政府は、文物を南の南京、上海に移した後、さらに西の四川まで避難させました。抗日戦争で勝利を収めた後、故宮の貴重な収蔵品は南京まで戻されたものの、再び起きた戦乱から逃れるため、民国三十八年(1949)には東へ運ばれ、台湾の台中の霧峰北溝に一時的に安置されることになりました。そして民国五十四年(1965)、国立故宮博物院が台北外双渓に再建され、文物が一般に公開されました。
本コーナーは故宮博物院史を主軸に、国家博物館としての規模を備えたはじめた紫禁城の様子や、戦乱中に文物が苦難の中を長距離移動した過程の記録、さらに文物が北溝に一時安置されていた期間中、数千年の歴史を持つ文物を守るために先人が行った重要な取り組みなどについてご紹介します。
溥儀の紫禁城退去
- 北京故宮博物院提供
民国十三年(1924)十月下旬、北京政変を発動した直系将軍の馮玉祥(1882-1948)は、溥儀(1906-1967)を宮中に留めることは旧清朝遺臣による復位の企てであり、共和政が安定しない禍根であるとして、代理内閣総理の黄郛(1880-1936)の同意により、十一月四日に〈修正清室優待条件〉五項を内閣で通過させた。これにより溥儀は皇帝の尊号を永遠に廃され、旧清朝の皇室は即日、紫禁城から退去しなければならなくなった。翌日早朝、京畿警衛司令の鹿鍾麟(1884-1966)は先遣部隊として神武門に向かい、濠周辺の警察を入れ替えた。十時には警察総監の張璧、国民代表直隸士紳李煜瀛(1881-1973)と共に紫禁城の後寝(皇帝やその一族が生活する場所)に赴き、印璽と宮殿を引き渡し、即日中に紫禁城から出て行くよう溥儀に求めた。午後三時、溥儀は家族を連れ、後海徳勝橋にある実父醇親王載灃(1883-1951)の住居に移った。その後の数日間、千人あまりの宦官宮女も身の回りの品を携え、皇室警察の検査と国民軍の監視の中で続々と紫禁城を出て行った。
故宮博物院設立
民国十四年(1925)九月二十九日、清室善後委員会はフランスやドイツの王宮博物館に倣い、故宮博物院の設立を決議。十月十日午後の開幕を決定するとともに、故宮博物院臨時理事会の組織を通過し、理事長に李煜瀛が就任した。十月十日午後二時、故宮博物院の開幕式が乾清門にて行われ、神武門の外には花牌楼が立てられ、門の入口上方には李煜瀛理事長が顔体で書した「故宮博物院」の扁額が掲げられた。開幕式は、まず李煜瀛理事長が故宮博物院設立までの経緯を説明し、その後に黄郛、欧米同窓会理事長の王正廷(1882-1961)、北京扶輪会(ロータリークラブ)・アメリカ留学中国人学生会会長の蔡廷幹(1861-1935)、及び鹿鍾麟、国民政府委員の于右任(1879-1964)、前北洋政府国務院参議の袁良(1883-1953)各氏が故宮博物院創建の意義についてそれぞれ述べた。式典終了後、清室善後委員会は故宮博物院の設立を電報で各界に知らせた。
初期の院務
- 北京故宮博物院提供
設立当初、故宮博物院は国内の不安定な政局や軍閥政権の度重なる交替などの影響を受けていた。幸いにも荘蘊寛(1866-1932)、江瀚(1857-1935)、陳垣(1880-1971)など文化界の関係者が維持会を組織し、皖系、直系、奉系の各軍閥と掛け合い、北洋政府の院務への介入を阻止したため、かろうじて博物院の運営を続けることができた。民国十七年(1928)六月、南方の国民政府が北伐に成功し、故宮博物院を接収。翌年(1929)二月、国民政府は李煜瀛を理事長、易培基(1880-1937)を院長に任命した。易院長の在任中、故宮博物院は組織体制、文物の保護と管理、所蔵品の整理、及び官舎の修繕、展覧や陳列、出版物の刊行などにおいて大きな発展を見せ、中国大陸時代における全盛期を迎えた。
文物の南遷
- 北京故宮博物院提供
民国二十年(1931)九月十八日、日本関東軍が九一八事変(満州事変)を発動。故宮は紫禁城外朝にある古物陳列処と協調し、十二月十日に臨時警務処を特設するなど博物院内外における防護措置を取ったほか、各館所蔵品の逸品を選り抜き、運搬の必要に備えて包装、箱詰めした。民国二十二年(1933)一月、山海関まで迫った日本軍が長城の各入口を攻撃し、北京にも危機が迫っていた。これを受け、故宮の理事会は緊急会議を招集し、文物を南へ避難させることを決定。行政院の指示に従い、文物を一時的に上海の仏英の租界に移し、倉庫を借りて保管することになった。二月六日より、故宮の文物は五組に分けられて運ばれ、五月二十三日までにすべてが目的地まで運搬された。同月、行政院は馬衡(1881-1955)を国立北京故宮博物院の院長に任命した。
南京分院の保存庫
民国二十三年(1934)十二月、故宮博物院理事会常務理事は、南京の重要な古跡朝天宮に保存庫を建設するという王世杰(1891-1981)教育部長の提案を通過し、行政院に上申し許可された。民国二十五年(1936)四月十五日、故宮南京分院保存庫建設の定礎式が行われ、八月に竣工。保存庫は鉄筋コンクリートの三階建築で、各階がそれぞれ一つの倉庫となっていた。保存庫後方の丘の下にも秘密の洞窟倉庫を設置。倉庫内は一定の温湿度に保たれるよう調節され、機械による制御が行われた。九月二十六日、故宮南京分院保存庫が落成し、十二月九日には文物が五組に分かれて上海を出発し、二十二日までに運搬がすべて完了した。
海を渡り台湾へ
- 民国三十七年(1948)十二月下旬 第一陣の文物を運ぶ海軍中鼎輪
- 邱志華氏提供
北溝聯管処
- 荘霊氏提供
民国三十八年八月、行政院は戦時態勢に対応するため、故宮博物院、中央博物院籌備処、中央図書館などを一時的に国立中央博物図書院館聯合管理処(聯管処)として合併し、教育部の管轄下に置いた。民国三十九年四月、聯管処が台中霧峰北溝に設置した文物倉庫が竣工し、台湾に運ばれたすべての文物が保管されることになった。五月、行政院は故宮博物院と中央博物院籌備処の理事会を改組し、共同理事会を設立。共同理事会は両院における理事会の職権を代行すると共に、台湾に運ばれた両院の古物の点検に着手した。民国四十二年(1953)三月、聯管処は北溝倉庫の附近の山に小規模の洞窟を掘り、万が一の時のための重要文物の保管場所とした。民国四十五年(1956)十二月、北溝陳列室が落成、翌年(1957)三月より一般に公開された。
国立故宮博物院再開
- 荘霊氏提供
民国四十九年(1960)九月、行政院は北溝の辺鄙な地理的位置では内外の参観客を集めることができないと考え、台北近郊に新館の建設を計画。国立故宮博物院移転建設チームが設けられ、外双渓が建設地に決定した。民国五十年(1961)九月、外双渓建設予定地の整地工事が始まり、翌年(1962)六月には新館建設工事の定礎式が行われ、民国五十四年(1965)八月にすべての建築が竣工した。行政院は台湾に運ばれた中央博物院籌備処の文物を故宮博物院に統合。同時に<国立故宮博物院管理委員会臨時組織規程>を公布し、管理委員会を行政院の隷属機関とした。当月、第一回管理委員会は王雲五(1888-1979)を主任委員に推挙し、国立故宮博物院院長に蒋復璁(1898-1990)が決定した。十一月十二日、故宮台北新館が開幕し対外に開放された。