「百年の追憶-写真で振り返る故宮紫禁城と文物の遷移」特別展
「百年の追憶-写真で振り返る故宮紫禁城と文物の遷移」特別展
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皇室の教師と友人

溥儀は幼い頃より宮中の奥で過ごし、外界の情況に対する理解には限界がありました。幼少期は伝統的経史や諸子百家等の言を読み、多くの皇帝の師や年功を積んだ儒者の教えを受け、また西洋の言語、科学、及び外国の歴史や地理の知識に関しては、イギリス人のレジナルド・ジョンストン(Reginald Fleming Johnston、 1874-1938)の教えを学びました。成長するに従い、溥儀は元のまま、「皇帝」の尊号を有する特殊な身分の下、清王室の復興を念頭に置き始め、宮廷の外にいる人士との接触も日に日に増していきました。

本コーナで選ばれたものには、溥儀皇帝と帝師や内外の友人と写真、また、実写記録のように、二人が宮廷内及び天津居住時期に、中国国内外の人士と接触した活動情景が展示されています。清末民初になると、時局が不安定になり、国際情勢もより複雜化します。各界の様々な人物が代わる代わる訪れる様子等から、映像の中には末代皇帝のもう一つの異なる生活の姿が具体的に反映されています。ご来館の皆様には歴史の写真を通して、当時の宮廷内の人物の服装や身につける物の細部とその変化をご覧頂きます。

朱益藩と陳宝琛

  1. 民国初期
  2. 国立故宮博物院蔵

陳宝琛(1848-1935)、字は伯潜、福建閩県の人、同治七年(1868)に進士となり、内閣学士、礼部侍郎等の職を歴任した。争ってまで諌めることで広く名を広めており、中仏戦争期間に南洋会に於いて大臣を努め、国を誤らないよう悪事を正した。光緒年間に母親を亡くし、それを機に故郷に戻り隠居生活を送った。宣統元年になり、張之洞の推薦により再び北京へ戻り、毓慶宮での師匠に赴任。溥儀の首席帝師であり、書道や詩を作ることに長けていた。朱益藩(1861-1937)は、江西蓮花県の人、光緒十六年(1890)に進士となり、陝西学政(清代の各省の教育行政長官)、山東学政、京師大学堂総監督、都察院左副都御史、毓慶宮への勤務等の職を歴任した。

陳宝琛と朱益藩は、名ばかりのささやかな朝廷時代に、溥儀の漢文帝師として迎えられ、中国最後の皇帝師範となった。朱益藩の帝師としての仕事は、民国十三年(1924)、溥儀が紫禁城を去るまで続いた。陳宝琛は最後まで溥儀に付き添い、北京から天津に於ける張園、静園時代も行動を共にし、君主復位という大計を強く主張し、溥儀の日本軍への依存行為に対しては徹底して反対した。数度にわたり溥儀の関所を出ることを阻止し、更に八十を超えた高齢になりながらも危険を冒して東北へ赴き、溥儀に偽滿皇帝を引き継がないよう強くいましめるが、結果は失意の下に引き返し、民国二十四年(1935)天津にて病死した。

溥儀と帝師朱益藩、陳宝琛と共に
溥儀と帝師朱益藩、陳宝琛と共に

帝師、レジナルド・ジョンストン

  1. 二十世紀初期
  2. 北京故宮博物院提供

レジナルド・ジョンストン(1874-1938, Sir Reginald Fleming Johnston)、イギリススコットランド人、《論語》の中の「士志於道」より、自らを志道と号した。早年エジンバラ大学で学び、その後オックスフォード大学で修士の学位をとる。光緒二十四年(1898)に中国に渡り、前後してホンコン総督の秘書、英国租借地、威海衛の行政長官となる。中国語に長け、中国国内各地の様々な場所を遊歴した。中国の文学、歴史や地理、儒教・仏教・道教の思想に対する造詣が深く、際立った中国通であったと言える。

民国八年(1919)、レジナルド・ジョンストンは、その特殊な政治背景及び漢学に関する功績から、李鴻章(1823-1901)の次男、李経邁(1876-1938)の推薦により、溥儀の宮中英文教師となった。それ以来、溥儀とは深い縁で結ばれ、正に思想における成長段階であった溥儀にとって、レジナルド・ジョンストンのその一挙一動、考え方ややり方、ひいては、その身なりや格好までも、全てが溥儀にとっての模倣の対象となった。

レジナルド・ジョンストンは、積極的に溥儀に西洋の新知識を吸収させ、出国し留学することを薦めた。更に溥儀にはヘンリ-(Henry)という英語名を付けた。溥儀にとって、この師であり友人でもある外国人帝師は、宮中における仲間であった為、レジナルド・ジョンストンに官吏として最も良い待遇を提供した。毓慶宮への出入り、紫禁城内で輿に乗ることを許可し、更に養性斎を個人の書斎として使用させ、西山桜桃溝を避暑別荘地として提供した。溥儀が紫禁城を追われ退去した後、レジナルド・ジョンストンも帝師の任を解かれ、民国十九年(1930)イギリスに帰国。在中期間は三十余年の長きにわたった。彼の生涯で執筆された近代中国政治及び風土・民情に関する論著は数多く、その中で、『紫禁城の黄昏』(原題:『Twilight in the Forbidden City』)は、広く人々の口の端にのぼった。



レジナルド・ジョンストンと溥儀、溥傑、潤麒、養性斎楼にて
レジナルド・ジョンストンと溥儀、溥傑、潤麒、養性斎楼にて

婉容と二名の英語教師

  1. 二十世紀初期
  2. 北京故宮博物院提供

溥儀の資料の中には、婉容が溥儀に認めた英文の短い手紙が収められている。婉容が英語を学び始めたのは、婉容が若い頃、天津で生活をしていた時代であると考えられる。しかし、どのような方法で学習したのは定かではなく、婉容が宮廷入りした後に、二名の外国籍の女性英語教師を招き英語を学んだことは確かである。溥儀は婉容に、エリザベス(Elizabeth)という英語名まで与えている。

この二人の女性教師。一人はその名を、「盈」と呼ばれ、目下のところ彼女がアメリカ在華メソジスト協会(The Methodist Episcopal Church)の牧師の娘であること以外、彼女個人の一生や宮中に於ける生活情況は、既存の資料にその記述を見つけることはできない。彼女の宮中に於ける教師の任期期間が短いことも関係すると考えられる。もう一人の女性教師の名は任薩姆(1902-1988)、米国籍、北京生まれ、原名はイザベル・イングラム(Isabel Ingram)、父親はジェームス‧ヘンリー‧イングラム(James Henry Ingram、 1858-1934)、公理会の宣教師、母親はミルト・ベル・プラウ(Myrtle Bell Prough、1871-1941)。民国十一年(1922)、アメリカマサチューセッツイースリー学院卒業後、中国に戻り、婉容の英語教師となった。彼女と婉容との親密な関係は、婉容の英語に対する強い興味を引き出した。いくつかの公の場に於いても、彼女と婉容が共に映る写真が見受けられる。

婉容と英語教師、任薩姆
婉容と英語教師、任薩姆

皇帝の天津張園に於ける社交生活

  1. 1920年代
  2. 北京故宮博物院提供

民国十三年(1924)、溥儀は国民政府により慌ただしく退去を促された後、十六年の間過ごした紫禁城での生活に終止符を打った。その後、北京の駐華中国日本公使芳沢謙吉(1874-1965)の協力の下、まず北京日本公使館に身を寄せ、その後天津の日本租界にある張園と静園に移り住んだ。天津居住時代、溥儀は積極的に公衆との活動を展開し、それによって西洋各国の支援を得て、清朝復興の念頭を強くした。

帝后在天津張園的社交生活
溥儀等の人たち。開灤鉱業本局にて