「百年の追憶-写真で振り返る故宮紫禁城と文物の遷移」特別展
「百年の追憶-写真で振り返る故宮紫禁城と文物の遷移」特別展
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清末民初の社会模様

清末民初の中国は、政治及び文化の面で一つの伝統的なものが現代風なものに入れ替わる時期でした。新しいものと古いもの、中国と西洋が相互に激しく揺れ動き、新時代の各種様相を作り出しました。清の晩年、社会に起こった構造変化に伴い、新たな社会現象が現れ始めます。例えば婦人の地位向上、または新式教育の受け入れ、或いは日増しに増加する留学経験を有する知識人、新たな潮流の趨勢への期待感、時代変動の推進など、全てが大きな影響力を発揮しました。

本コーナーで陳列される古い写真は、写真ごとに内容が異なり、新時代の異なる社会階層の人々の容貌が反映されています。一方で、北京城都の大通りを行き交う一般庶民や紫禁城の周辺を取り巻く屋台の行商たちが、伝統的な建築物や城門の牌楼とは対照的に映り、新時代の雰囲気とは全く相容れない様子を思わせ、更に、清末民国初期の多元化した文化が、衝突と融合という矛盾した特色を現しているようです。

北京社会の面貌

  1. 二十世紀初期
  2. 北京故宮博物院提供

紫禁城の内城には九つの城門がある。その中で紫禁城の南側に位置し、俗に前門と呼ばれる正陽門が、最大の規模を有している。城門内には城門の外を取り囲む半円形の小城郭があり、上にはやぐらが設けられている。光緒二十六年(1900)八国連合軍による破壊に遭うが、ほどなくして再建される。民国四年(1915)北洋政府により、交通改善の為に小城郭は取り除かれた。

北京正陽門甕城
北京正陽門甕城

梅蘭芳

  1. 二十世紀初期
  2. 北京故宮博物院提供

梅蘭芳(1894-1961)、江蘇省呉県の人、原名は瀾の一字、本名は鶴鳴、字は畹華(エンカ)、京劇関係者の家系に生まれ、祖父梅巧玲(1842-1882)、父梅竹芬(1874-1897)共に清末の著名な京劇の女形であった。民国二十二年(1913)、宮中に上がり端康太妃の五十才の誕生日の祝いの席で演じ、同席していた溥儀及び貴妃より称賛を得、恩賞を与えられた。数多く世界各地を訪れて公演し、国外の著名な芸術家とも交流。その演劇芸術にも高い評価が得られていたことが伺える。生涯を芝居一筋に送り、例えば杜麗娘、林黛玉、虞姫、花木蘭等の伝統的な中国婦人像を作り出し、京劇文化に更なる高潮をもたらした。

梅蘭芳《天女散花》スチール写真
梅蘭芳《天女散花》スチール写真

読書する女性

  1. 1920年代
  2. 北京故宮博物院提供

写真の中の女性は、髪型から服装に至るまで、全身が男装の姿で、手には《群学報》を持ち、椅子に寄りかかり、椅子の脇には意図的に西洋の置き時計と西洋式のポットが置かれており、民国初期に於ける女性が新知識の追求と西洋化の意味合いがはっきりと見て取れる。その手に持たれた《強学報》は、民国初期に北京より大量に発行された小型の新聞で、主に京城市井に於ける庶民の生活や社会の細々とした出来事、京劇の広告などで、あるべきものはすべて記載されていた。

椅子にもたれ読書する女性
椅子にもたれ読書する女性

使用人となる女官を選ぶ

  1. 清朝晩期
  2. 北京故宮博物院提供

清宮には多くの宦官が仕えたほか、多くの女官も皇族后妃に仕えた。宦官は全てが漢民族であったが、女官は主に旗人であった。彼女たちは内務府の上三旗包衣(正白、正黄及び鑲黄)より選ばれ、宮中では「選秀女」(秀女の選抜)と呼ばれた。実際は専門に身の回りをお世話する侍女であり、多くが生活に苦しく貧しい旗人の家の娘たちであった。女官は約十三才にて宮中に入り、使用人として働き、四、五年後に家に戻された。努力して努めた者には、上の者により目を掛けられ、宮中に残り引き続き使用人として働くこともあった。

宮中に於ける侍女の選抜は、内務府により取り仕切られた。選抜される娘達は、神武門より宮殿に入り、一人一人に藍色の長着が配布される。また、一枚が長さ五、六寸(1寸約3,3センチ)、幅約二寸の木の札がその衣服の右第一ボタンに付けられ、札には「某某佐領」もしくは「某某管領」某某の娘と記される。選ばれた者は残り、担当の中老年の侍女(ばあや)、或いは宦官により連れられ、落選した者は木の札を返却し帰宅する。選ばれた者、又は定員外に更に数名選ばれ、親王府や皇后や女官により評価された後侍女となることもあった。選ばれた女官は、まず「婦差」(差:公職)を一名教育係の女官を付け、厳格な指導をし、三個月以上を経て、全ての作法を学び、ようやく宮仕えとなる。

使用人選抜を待つ秀女たち
使用人選抜を待つ秀女たち

紫禁城の宦官

  1. 1923年
  2. 北京故宮博物院提供

二十世紀民国の時代に、おおよそ全世界に於いて唯一中国だけが宦官制度を有していたとされる。王宮の他に、皇族の邸宅ベイレ(貝勒)にも同様に宦官が若干おり、雑事に従事していた。清朝最盛期に比べ、民国初期の形ばかりの朝廷宮中にも宦官が約八、九百人おり、全ては宮中の督領侍により管理されていた。その下に副督領侍、総管、首領がおり、更にその下に一般的な階級が比較的低い宦官がおり、各処の雑用、掃除、宮門の管理、倉庫保管、皇室の食事、防火予防、及び上奏を取り次ぐ等の作業に従事した。

これらの宦官は多くが直隸地区(現河北省)出身で、主に家が貧しく、生計が困窮を極めていたと言う。例えば、写真の溥儀に仕えた養心殿御前太監の邵興禄は、直隸南皮県出身である。民国十二年(1923)六月、建福宮の大火災の際、最も迅速に火災を見つけ報告した馬来禄も直隸東光県出身である。多くの人にも知られる清末の宦官李蓮英(1848-1911)及び崔玉貴(1860-1925)のいずれも、直隸大城県の出であり、曽て隆裕皇太后に仕えた張蘭徳(1876-1957)も直隸静海県の人であった。

清宮の宦官制度の等級は、森厳・総管・首領・御前等で、その地位は尊ばれ、特殊な待遇があった。絹織物の長衣に身をまとい、階級の低い宦官をこき使った他、宮中に於ける権力を振りかざし、貪婪に不正行為を繰り返し、甚だしきに至っては美術品を横領した。建福宮の火災の後(建福宮には美術品が多く置かれており、宦官による美術品の横領を一掃するために目録を作成したが、直後に証拠隠滅の為に宦官により放火された)、溥儀は激怒し、宮中の宦官制度を廃止し、文物を売りさばくことをやめさせた。宦官を廃止した溥儀のその行為は、一時世を沸き立たせ、外国人にさえ溥儀の決断は広く称賛された。しかし、その後宮廷の外へ流れた宦官は一時北京の社会治安の懸念の種となった。

内殿総管邵興禄
内殿総管邵興禄