「百年の追憶-写真で振り返る故宮紫禁城と文物の遷移」特別展
「百年の追憶-写真で振り返る故宮紫禁城と文物の遷移」特別展
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時代の革新

撮影技術が中国に伝えられた後、その技術は清政府により、興業して国の強固を図る数々の重要事業を記録するために使用されました。往年の清朝の役人は、皇帝に事務内容を上奏報告する際は、多くは文字により陳述し、それをたたんで進呈し、文字による報告ができない場合は絵を付して上奏しました。清朝末期になると、役人も攝影技師を丁重に招聘し、或いは専門の写真館から同行者を派遣し、官営企業、軍事訓練、沿岸防衛前線、工事建設等巡回調査などを撮影して記録し、皇帝に上奏し御覧いただいたのです。

本コーナーでは清の光緒・宣統年間の朝廷による巡回調査の記録写真が展示されます。朝廷の建設した新式の製造工場、西洋式学堂、新設の水軍軍艦及び新軍軍事演習、京張鉄道建設の竣工等、清の朝廷の力を合わせ新たな政治の舵取りが反映されています。工業、教育、軍務、交通各方面の現代化を推進した過程をご覧いただきます。

北洋機器製造局

  1. 宣統年間
  2. 北京故宮博物院提供

北洋機器製造局は、同治六年(1867)に成立し、三口通商大臣崇厚(1826-1893)が許可を得て天津に設立され、当初は「軍火機器総局」、又は「天津機器局」と呼ばれたが、同治九年(1870)李鴻章により経営が引き継がれた後、「天津機器製造局」の名に変更され、光緒二十一年(1895)には、更に「北洋機器製造局」と改名された。中国早期に於ける現代化官営の重要な軍事工場の一つであり、その規模は江南製造局に次ぐものであった。当製造局は東、西の二部に分かれ、専ら銃砲、火薬、銃弾、水雷、軍用器具及び軍艦船舶の製造に従事した。光緒二十六年(1900)、義和団事件後の八国連合軍による焼き討ちに遭い、光緒三十年(1904)袁世凱が直隸総督に就任した後、山東徳州の地に新たに工場が建設し直された。

写真集は朱恩紱が当工場を実地調査した際の撮影記録であり、《北洋機器製造局各工場機器図》と称される。収録し、装幀された写真は120幀枚に上り、北京へ戻り実地調査の報告上奏する際の根拠とした。精選した数枚の写真から、清朝晩期の朝廷の官営軍事工業建設の情況を伺うことができる。

北洋機器製造局ボイラー工場建築物
北洋機器製造局ボイラー工場建築物

貨幣制度の革新

  1. 1907
  2. 北京故宮博物院提供

天津が通商港として開かれて以来、商人が雲の如く集り、貨幣の流通がおびただしく増え、北方の金融の中心となった。光緒二十八年(1902)袁世凱が直隸総督に就任後、周学熙(1866-1947)を北洋銀元局総裁に任命し、翌年「戸部天津銀銭総廠」を設立し、アメリカ・日本・ドイツ等の国より最新機械設備を導入。光緒三十三年(1907)「戸部造幣総廠」と改名し、清末の規模が最大で、最先端設備を備えた造幣の中心となった。新たな貨幣の推進と鋳造は、清末の地域貨幣流通の混乱した状況を改善し、貨幣制度の様式を統一し、金銀の含有量及び重さから、政府当局の貨幣の鋳造権の威信を高めただけでなく、民国時期の従来の銀両を廃し、不換紙幣である銀元にかえ、造幣改革の基礎を打ち立てた。

戸部造幣廠頭門
戸部造幣廠頭門

京張鉄道

  1. 1909
  2. 北京故宮博物院提供

京張鉄道は中国鉄道史上、初めての国内の資金により自ら建設された鉄道である。鉄道は著名な技術官であった詹天佑(1861-1919)に建造が任され、光緒三十一年(1905)より宣統元年(1909)に至るわずか四年の歳月で、この一大建設工事を完成させた。

鉄道の全線は二百余キロメートルに至り、北京豊台より張家口駅まで、内モンゴル、ロシア及びヨーロッパへ向かう為の必須の交通の要路となった。展示されている写真は《京張路線工事撮影》の一冊の書物からのもので、上、下の二冊からなる。収録された写真は178枚あり、京張鉄道の各段階の工事過程、各タイプの機関車、工事の検収と開通式典の様子が収められている。写真撮影師は広東省香山県の譚錦棠(1876-1915)の撮影によるもので、撮影時期は宣統元年(1909)年九月~十月の間であると考えられる。

京張鉄道張家口駅
京張鉄道張家口駅

新軍事訓練

  1. 1905年
  2. 北京故宮博物院提供

新軍は清朝の旧式八旗、緑営(リョクエイ、清代に漢族で組織した軍隊で、緑色の旗を標識とした)と湘淮等の軍隊の種別に相対するものであり、清末光緒二十年代より宣統年間(約1895-1911)に、外国の軍制に倣い、西洋式訓練を導入し、外国の武器裝備を購入し、西洋の教官を招聘し新式の軍隊の種別を確立した。光緒三十一年(1904)日露戦争が勃発。直隸総督兼北洋大臣であった袁世凱が北洋新軍の拡大を上奏し、全国に新たな軍を計三十六鎮を配備し、率先して直隸地区(現河北省)にて北洋陸軍常備軍を遷安・馬廠・保定の三地に分散駐留させた。光緒三十一年(1905)二月、朝廷は兵部の長官、長庚(1844-1914)を派遣し、徐世昌等共に軍の編成を試みた。また宣統二年(1910)年、朝廷は已に編成されている北洋陸軍各鎮の校閲を行ったが、当時は、「庚戌校閲」と称され、各鎮の軍事の実力及び戦備情況を調査した。

上述した過程に於ける軍事単位は、全て逐一撮影された写真であり、同時に美しく装幀製本され、皇太后や皇帝に献上された。例えば光緒三十一年の軍隊編成の試みでは《北洋陸軍保定一鎮と京鎮軍事訓練照片》、《北洋陸軍遷安馬廠両鎮の軍事訓練写真》があり、宣統二年庚戌校閲には《庚戌校閲第一鎮撮影》、《庚戌校閲第二鎮撮影》及び《校閲陸軍第三鎮撮影》等があり、直接、清末の新軍隊の軍事訓練及び伝統的な旧式軍隊の種類の差異を観察することができる。

保定一鎮の士官の整列
保定一鎮の士官の整列