南巡の道すがら
清代の諸帝も謁陵のほかに幾度も巡幸を行いました。特に南巡(江南地方への巡幸)では、皇帝は庶民の暮らしぶりを視察し、河川工事や治水対策について検討しました。その中でも康熙帝(1654-1722)と乾隆帝(1711-1799)は6回も南巡を行ったので、南巡路線図が何枚も残されており、短い横線に黄色の実践を加えて表した移動ルートのほかに、道沿いの行宮や山河、河川、村落も詳細に描き込まれています。こちらのコーナーでは3図を展示します。第1図は「石門鎮北第二站至海寧県塘棲鎮大営道里図説」、第2図は「塘棲鎮第三站至省城内行宮道里図説」、第3図は「海寧陳園第四站至省城内行宮道里図説」です。この3図には同一回の巡幸ルートが書かれています。第1図は浙江省嘉興府石門鎮北大営を起点として、運河に平行に伸びる道で南へ向かいます。石門県城に至ると道が二つに分かれ、南へ向かう道は海寧県城に、西へ向かう道は塘棲鎮大営に至り、その後、南へ向かって北新関へ至ると水路を通って左家橋に至り、そこからまた陸路で南へ向かい、杭州府城の行宮に到達します。第3図は第1図の続きで、石門県から一路海寧県城へ向い、それから県城の南に位置する鎮海門から出て、老塩蔵、西新倉、李家埠、八仙石を通り、最後は杭州府城内の行宮に到着します。この図の海寧県はまだ州に昇格しておらず(乾隆38年,1773)、この点から推測すると、この3図はそれ以前に制作されたものだと考えられます。また、海寧県の南方を見ると、銭塘江北岸に「柴塘」と註記してあり、乾隆帝の4回目の南巡が海寧から始められたことから判断すれば、おそらく乾隆帝が行った4回目(乾隆30年,1765)の南巡で使われた、南巡用地図だと思われます。