早すぎる別れ
誰の人生にも終着点があります。公主たちは一般庶民よりも早く終着点にたどり着いただけなのでしょう。清朝公主の平均寿命は26歳で、多くの公主たちが若くしてこの世に別れを告げました。医療技術が現代ほど発展しておらず、伝統的な男尊女卑の観念も根強く、自身の意思とは関係なく縁組されるなど、いずれも公主の生活の質や心身の健康に影を落とした可能性があります。
しかし、公主の面影はその生涯の終わりと共に永遠に消え失せてしまったわけではなく、人々の記憶に長く残り、音楽や文学の中で語り継がれたのです。その結果、公主はより一層生き生きとして、様々な姿を見せてくれるようになりました。
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祭荘静固倫公主四妹文
『養正書屋全集定本』収録
清宣宗撰
1822年内府烏絲欄写本
故殿0358271811年、嘉慶帝の四女の荘静固倫公主が逝去した。享年28。綿寧皇子(後の道光帝)は「祭荘静固倫公主四妹文」に荘静公主の生い立ちや親子関係、病床での様子について記している。綿寧と荘静公主は同じく皇后喜塔臘氏(Hitara)の子で、年の近い妹に対して特別な思いを抱いていたはずである。祭文の最後の段落には「吾与妹自少歓洽、奉承温清、胡一旦釈予而去哉?」とある。幼い頃から仲の良い兄妹だったことに触れ、「なぜ自分を置いていってしまったのか」と哀しい問いかけをしており、妹との別れが耐え難く、諦めきれない思いが強く感じられる。
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「公主陵」という地名について
『欽定熱河志』収録
和珅、梁国治等纂修
1781年武英殿刊本
故殿029371「公主陵」とは、内モンゴル自治区赤峰市松山区大廟鎮の公主村を指す。康熙帝の十三女和碩温恪公主の墳墓がこの地名の由来である。もともとはモンゴルの翁牛特部(オンリュート)が暮らす地域で、額駙(公主の夫)蒼津の関係で、温恪公主はこの地に埋葬されることになり、後に地名にもなった。ここで注目したいのは、清朝の制度では、帝后の墳墓は「陵」、妃嬪、皇子、皇女及びその他の宗室貴族の墳墓は「園寝」と称する点である。「陵」という字を使った「公主陵」は清朝宮廷の制度に沿ったものではなく、地方の人々の声や見方が反映されたことを示している。
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円明園で遊ぶ乾隆帝と十女の故事
『竹葉亭雑記』収録
姚元之撰
1893年刊本
徐庭瑤氏寄贈
贈善001211本書には乾隆帝の十女固倫和孝公主の故事が収録されている。ある日、公主と父親の乾隆帝が円明園の同楽園買売街へ遊びに行ったこと、和珅がお供したことなどが記されている。街角で売られていた「大紅夾衣」を見かけた乾隆帝は、公主が和珅のことを「丈人」(高齢の男性や義父のこと)と、ふざけて呼んでいたのを思い出し、「丈人にあの服を買ってもらうといい。」と公主に言った。それを聞いた和珅はすぐさま28金を取り出してその服を買い、公主に差し上げたという。
この故事は、和孝公主は伝統的なタイプの女性像とは違い、やや男性的な性格だったことを伝えている。また、この故事が広く流布されて語り継がれ、公主にまつわる思い出の一つとなったことで、公主がより一層生き生きと感じられる。