阿哥の時間割
清朝皇室に大勢いた阿哥たちの学習内容は文武兼備が求められていました。学問に関しては庶民の子供たちと同じく、科挙の必読書である儒学の典籍を学びつつ、詩詞を詠み、律賦を作り、策論や表文(上奏文)を書くなどでした。書画や文芸も阿哥たちの必修科目でしたが、科挙に参加する子供たちが主に「館閣体」を習ったのとは異なり、書画の創作に重点が置かれていました。
清代は満州語とモンゴル語も阿哥たちの必修科目で、現代人が居住地の方言を学ぶようなものでした。また、騎射などの武芸も阿哥たちの重要科目で、囲猟(集団による囲い込み猟)の訓練を通して身体を鍛えて胆力をつけ、見識を深め、決断力を養いました。身体の鍛錬は現代の体育の授業に似ています。当時、民間で漢語以外の言語を学ぶのは繙訳科考(翻訳科挙)の受験者が多く、身体を鍛え、武術の稽古に励むのは武挙の受験者ぐらいでした。
西学東漸の影響を受け、雍正帝が康熙帝の教えをまとめて編纂した『庭訓格言』を見ると、阿哥たちがあらゆる学問に精通することを願い、暦算や数学、音楽など、西洋科学には特に気を配るようにと激励しています。その頃、清朝宮廷が学び始めた自然科学の内容の一部は、現在でも学生たちの基礎課程とされています。
授業内容
阿哥たちの授業内容は次のように分類できます。1.漢文化である四書五経、『史記』や『資治通鑑』などの儒家経典。2.詩詞文賦。3.満州語とモンゴル語。4.騎射と武術。5.書法の手習い。6.天文や暦算、数学、音楽などの西洋科学。
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清嘉慶御製宗室訓
清仁宗嘉慶13年(1808)部分
国立故宮博物院藏言語の学習は阿哥たちが第一に取り組むべきもので、特に満州語とモンゴル語は最も重要な科目とされていた。清代は多様な民族が交流した時代で、満州族の統治者は満州族特有の文化─「国語騎射」を守り伝えるため、祖先の遺訓を遵守するようにと、繰り返し強調した。そこで順治初年に旗学が創設され、満州族の子弟に満州語と騎射を教えるようになった。康熙帝は「漢語を学ぶようになった後の子弟らが、満州語を忘れてしまう」ことを危惧していたが、嘉慶帝もまたこの点を憂慮しており、嘉慶13年(1808)に著した「御製宗室訓」には、「国語騎射の伝統を守り、規則通りに勉学に励むこと」、更には「別の紙にも書いて上書房に掛けておく」と記されている。皇子たちがこの教えを見る度に気持ちを新たにし、祖先の遺訓を重んじるよう願ってのことであった。
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聖祖康熙頒訓;世宗雍正録 『聖祖庭訓格言』 不分卷
清雍正8年武英殿刊本
国立故宮博物院蔵騎射と武術は満州族の伝統だった。弓技の優劣は騎馬の熟練度に左右される。阿哥たちは幼少の頃から弓の扱いや歩射、騎射を学んでいた。騎射の稽古は経書の素読を終えてからが一般的で、漢文典籍の学習と交互に行われていた。康熙帝は騎射を得意としていたが、『庭訓格言』にも「騎射の道というものは、幼い頃から学んでこそ熟達する。馬を御すこともままらならぬのに、騎射に優れている者などいない。」とある。そのため、清朝皇室は阿哥たちの騎射訓練を非常に重んじ、幼少期から訓練を重ね、「人馬一体となって飛ぶように駆け、馬を自在に操り獣を追い、矢を放てば必中する。それを見ると爽快な気分になる。」というレベルに到達するまで鍛錬した。
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『大清高宗純皇帝実録』
清 慶桂等奉敕纂 卷一千三百八十四 清乾隆五十六年八月上
漢文小紅綾本 国立故宮博物院蔵阿哥たちの弓技に関する催しや、行囲(狩猟用の囲場)での記録は各年代の『実録』や『起居注冊』などの文献に見られるほか、詩文集にも記述がある。乾隆56年(1791)8月12日に避暑山荘で行われた催しで、乾隆帝は皇孫たちの弓技を眺めたという。その時、13歳だった皇孫綿慶(1779-1804)は3本の矢を命中させて黄褂と三眼花翎を賜り、8歳の皇元孫載錫も3本の矢を命中させ、黄褂と双眼花翎を賜ったという。乾隆帝は大いに喜び、詩を詠んでこの出来事を記録した。皇元孫載錫より4歳も幼かった自分が康熙帝の囲猟に同行したことを懐かしみ、この先祖代々の文化の伝承もすでに7代目になったと記している。(『大清高宗純皇帝実録』卷一三八四より)
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幾何原本 六卷
(西洋)欧幾里得(エウクレイデス)撰
清乾隆間写文淵閣四庫全書本 国立故宮博物院蔵康熙帝はフランス人のブーヴェ(白晋1656-1730)やジェルビヨン(張誠1654-1707)、ベルギー人のフェルビースト(南懐仁1623-1688)、イタリア人のペドリーニ(徳理格1671-1746)などの宣教師から西洋の数学や天文学、音楽、医学などの自然科学を学んだ。康熙帝は西洋の科学に強い関心を抱き、阿哥たちにも西洋の学問に触れさせた。今回、展示する『幾何原本』は古代ギリシャのエウクレイデスが編纂したもので、イタリア人のリッチ(利瑪竇1552-1610)が口訳した内容を、明代の徐光啓(1562-1633)が筆記した書籍である。フランス人宣教師のブーヴェが著した『康熙帝伝』には、康熙帝が幾何学を学んだ過程が記されている。初めは宣教師に満州語で講義をさせ、満州語と漢語に精通した大臣2名に講義の内容を記述させ、繰り返し聴講して復習し、皇帝自ら絵図を描くなどして、5、6ヵ月ほどで幾何の原理を充分に理解するようになったという。
皇家の教科書
本院所蔵の『帝鑑図説』や『養正図解』などの書籍は、清朝宮廷が明代の書籍を元に絵図を制作、または復刻して刊行されたもので、生き生きと表現された挿絵を見ながら、中国古代の帝王とその治国に関する事跡が学べます。文章も挿絵も優れており、阿哥たちの学習意欲を高める内容となっています。咸豊11年(1861)10月の『起居注冊』によれば、『帝鑑図説』は幼い同治帝が毎日学ぶべき重要な教材とされ、2名の帝師─祁寯藻と翁同龢がこの本に収録されている故事について解説したそうです。
このほか、乾隆帝が皇子の永珹(1739-1777)、永瑆(1752-1823)、永瑢(1744-1790)、皇孫の綿寧(道光帝,1782-1850)に命じて模写させた宋代范祖禹の『帝学』という書籍も本院に収蔵されています。これは歴代名君について解説した書籍で、正心修身、学力向上、自己研鑽の手本となる歴史の教科書でした。その内容を書き写すことで、阿哥たちに治国の道理を学ばせたのです。