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阿哥の先生たち

総師傅や師傅、諳達と呼ばれた教師たちが阿哥の授業を担当していました。そのほかに数名の陪読(付き添い,満州語は哈哈珠塞)と伴読(勉強の相手をする官吏)もいました。諳達(満州語は)は仲間や友人という意味で、阿哥たちに満州語とモンゴル語、騎射を教えていました。皇帝も阿哥たちも上書房の師傅への礼儀を非常に重視していました。清代の『竹窓筆記』によれば、初めて書房を訪れた際は阿哥も師傅も拱手して礼を行い、毎日、阿哥と師傅は手を取って挨拶をしたそうで、師傅を敬う気持ちが充分に感じられます。

上書房で学ぶ阿哥たちと師傅や諳達などの教師たちは長年の付き合いとなり、強い絆で結ばれていました。その後、皇帝に即位したとしても、当時の学習内容や師傅、諳達らと共に過ごした日々を懐かしみました。例えば、乾隆帝が藩邸にいた頃は、後に「三先生」と尊称された福敏(1673-1756)と朱軾(1665-1737)、蔡世遠(1681-1734)、3名の帝師を含む多数の名師がいましたが、乾隆帝は生涯を通して恩師を懐かしく思い出し、詩にもその気持ちを表現しました。

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  • 大清高宗純皇帝実録乾隆五十四年三月上

    卷1324
    国立故宮博物院蔵

    清代の上書房の総師傅と師傅は翰林出身でない場合でも、少なくとも進士出身で、阿哥たちの教育を任せるに足る博学多識の人物であり、いずれも皇帝に抜擢された教師たちだった。展示品には、嵇璜や王杰、潘世恩、穆彰阿、翁同龢、李鴻藻など、上書房の師傅たちの名が記されている。その中の一つである『高宗実録』には、「師傅不進書房議処事」という記述がある。乾隆54年3月、上書房の総師傅から師傅までが6日もの間、一度も上書房に行かなかったため、議処(処罰)が科せられた。この件からも清代の皇帝が阿哥たちの学習を重視していたことがわかる。

  • 『味餘書室全集定本』 卷一(第一冊)

    清 仁宗撰;慶桂等奉敕編
    清嘉慶6年武英殿刊本 国立故宮博物院蔵「味餘書室詩文選原序」

    嘉慶帝は朱珪師傅の言葉「勤学者有餘、怠者不足、有餘可味也。」から、毓慶宮の書室を「味餘書室」と命名した。『味餘書室全集』「原序」には嘉慶帝の学習歴が記されている。「6歳から経書を学び始め、13歳で詩文、17歳で文章を学んだ。日々勉学に励み、寒暑にかかわらず、幸いにも中断することがなかった。近体詩の格律は東墅師傅に教わり、古体詩及び古文は石君師傅に習った。」嘉慶帝の養育期間中は朱珪師傅が勉強相手となって指導も行い、特に作詩や古文を教えていた。

  • 『奏報臣病重瞻天無日(遺摺)』

    清 杜受田奏
    清咸豊2年7月9日 8扣 国立故宮博物院

    杜受田が病没すると、咸豊帝は師傅杜受田の遺疏(遺言書)に朱筆を入れた。「書房で学んだ日々を思う。その教えは身体の隅々に刻み込まれている……永遠に会えぬ日が来るとは想像だにしなかった。17年の思いが流れ去ってしまう。ああ、卿の不幸は、正に朕の不幸なのだ。」師傅の教え子に対する期待もその死と共に「付予逝水」(水泡に帰す、または死を意味する)─流れ去ってしまった。

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