阿哥、授業へ
乾隆帝(1711-1799)は6歳から上書房で学び始め、12歳の頃に円明園の牡丹台で康熙帝(1654-1722)にお目見えした時には、周敦頤(1017-1073)の「愛蓮説」全文を諳んじることができました。康熙帝に認められた乾隆帝は、宮中で大切に養育されて後の皇位継承者となったのです。文武両道だった乾隆帝は様々な技芸に精通していましたが、生涯に4万首を超える詩を詠むなど、深い学識を備えた人物だったと言えます。宮廷の奥深くや貴族の邸宅で成長した満州族宗室の子弟たちは、どのような教育を受けていたのでしょうか。
清代の上書房(尚書房、阿哥書房とも言われる)制度は雍正年間に開始され、阿哥たちの学習の場として活用されました。阿哥たちは現在の小学校から中学校に相当する期間(6歳~15歳)、上書房で勉学に励み、すでに親王や貝勒に封ぜられていた者も、上書房での学習が義務付けられていました。毎日早朝寅の刻(午前3時~5時)に上書房に入ると、まずは弓の稽古をし、それから満州語とモンゴル語を習い、卯の刻(午前5時~7時)から夕方まで漢文の典籍を学びました。授業を終えた後も騎射の稽古や文章(満州語とモンゴル語)の暗唱、漢文の復習をするなど、効率的で充実した学生生活を送っていました。
一年のうち、元旦と端午節、中秋節、万寿節(皇帝の誕生日)、阿哥本人の誕生日しか休みがなく、寒暑にかかわらず、欠席は許されませんでした。阿哥たちは宮中の上書房や南書房、毓慶宮、懋勤殿などのほか、円明園や避暑山荘などでも授業を受けていました。書房には弓の稽古場も設置されており、皇宮には「箭亭」もありました。皇家の広大な木蘭囲場は阿哥たちが騎射の鍛錬をする大切な場所でした。
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『養吉斎叢録』卷四(第二冊)
清 呉振棫撰 『養吉斎叢録』卷四(第二冊)
清光緒二十二年銭塘呉氏刊本 国立故宮博物院蔵 贈善006682阿哥たちが上書房で学習を始めた年齢や日々の暮らしぶり、学習内容などの記録は清代の文書や雑記などに見られる。清代道光年間から咸豊年間に書かれた呉振棫(1792-1870)の『養吉斎叢録』(巻四)には次のような記述がある。「我が朝の家法(子弟の教育に関する規則)では、皇子や皇孫は6歳から教師について学び始める。寅の刻(午前3時~5時)に書房に入り、まずは満州語とモンゴル語を習い、それから漢書を学ぶ。書房に来た教師は卯の刻(午前5時~7時)まで指導をした。幼い子の場合は比較的簡単な授業のみで、教師は昼前に退朝した。遅くとも正二刻(午後1時30分)か、申の刻(午後3時~5時)までであった。元旦のみ休講となり、大晦日及びその前日は巳の刻(午前9時~11時)に退勤が許された。」
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『皇城宮殿衙署図』 卷軸
『皇城宮殿衙署図』 卷軸 清代絹本着色 (部分)
国立故宮博物院蔵 平圖0216011.上書房は乾清門内にあり、阿哥たちはここで授業を受けていた。皇帝は政務の合間に、いつでも授業中の阿哥たちの様子を見に行くことができた。
2.毓慶宮は乾清宮以東に位置する。康熙年間に皇太子允礽(1674-1725)のために建設された。雍正朝以降は阿哥たちが勉学に励む場所とされ、弘暦、弘昼、顒琰、綿寧などはもちろん、同治帝と光緒帝もこの場所で学んだ。
3.箭亭は射殿とも言われ、紫禁城東部の景運門外に位置する。阿哥たちは亭外にある広大な平地で騎馬や弓の訓練を行った。この広場は武殿試(武進士を選出する試験)の騎馬や弓、刀、石などの試験を行った場所でもある。