昔の人は木の版木に彫刻する方法で書籍の挿絵を制作しました。墨の色は単色の方が便利だったが、赤と黒の二色を使用することで、職人の確かな技芸を示しました。明代の万暦年間に呉興地方の閔斉伋、凌濛初の両家が多色刷りを用い、各種の書籍を出版して大反響を巻き起こしました。また天啓年間には、より多くの版木を使用し、分色分版の方法で印刷する「餖版(とうはん)」と呼ばれる技術、および浮き彫りの効果を表す「拱花(きょうか)」という技術が広まりました。このうち、江寧地方の呉発祥の『蘿軒変古箋譜面』、金陵地方の胡正言の『十竹齊書画譜』はその独自の工夫の指標ともいうべきもので、彫刻の技術は新しく、また文人の持つ気風を備えた手法でした。餖版、拱花の技法は精妙で、これによって図書印刷の風潮がもたらされました。
明代末期、イタリア人宣教師のマテオ・リッチ(1552-1610年)は西洋の画像を携えてきました。しかし銅版画の技術の実践が宮廷で認められたのは清朝の康熙年間でした。清の宮廷の銅板画制作技術の根源となったのは、康熙帝と宣教師のマテオ・リパ(1682-1745)の間での質問、実験でした。『避暑山荘参十六計詩図』は、初めて銅版画として制作が成功した作品です。また乾隆皇帝が「十全武功」(じゅうぜんぶこう)と呼ばれる10回の外征を行ったことを宣揚するため、銅版画の制作を命じたことも、銅版画を挿絵に運用する上で最高の礎となりました。
清朝中期以降になると、外国の図書販売業者が石版を使用して印刷する技術を導入するようになりました。彼らは商業利益を重視し、低コスト、高生産量を求め、短期間で各種の画報や図書を出版したいと考えました。石版画は新しい材質を運用して制作した挿絵作品でしたが、表現の精妙さ、細密性は木版画や銅版画には及びませんでした。
十竹斎書画譜の翎毛譜
- 明 胡正言 編
- 明末 彩色套印本
『十竹斎書画譜』は明代末期、胡正言(1580ごろ-1671)によって編纂された作品。「餖版(とうはん)」と呼ばれる技法(木板水印ともいう)で印刷された大型の画集である。餖版は明代末年に用いられるようになった。木版画の彩色套印(多色刷り)を基礎として発展した印刷技術である。印刷の過程で彩色画稿の要求に従い、輪郭を描き、さらに数十枚から百枚に及ぶ小型の版木に彫刻を施す。その後、貼り合わせて位置を固定し、さらに墨、顔料、糊を用いて重ね刷りしていく。
国立故宮博物院に収蔵されている『十竹斎書画譜』は合わせて26面で、うち22面が『翎毛譜』、4面が『書画冊』に属する。版本の帰属から、明末の初版本、および嘉慶23年(1818年)に芥子園(かいしえん)で再版された本の2種類が含まれていると考えられる。本作品の『翎毛譜』は、絵の上に「五雲」の鈐印(けんいん)があり、近景が描かれている。一羽の鳥が桂花(けいか。キンモクセイ)の枝に止まっている。曲げた首、なだらかな羽からは今にも動き出しそうな躍動感が感じられる。双鉤填彩(そうこうてんさい)と呼ばれる輪郭線の内側を彩色する画法には、宋の画風の名残が感じられる。草書で書かれた題名から、明末の崇禎(すうてい)年間に刊行された初版本と思われる。
『翎毛譜』は『十竹斎書画譜』の中でも晩期に属する作品である。色はあでやかで、彫刻の技法が優れ、印刷技術はその他の譜に比べて、より複雑で成熟している。
この作品は、『書画冊』に含まれている。一羽の鳥が枝に止まり、果実をついばんでいる姿を描いている。輪郭線の内側を彩色する双鉤填彩(そうこうてんさい)の画法が用いられ、木の枝や幹、葉はまさに実写したかのようだ。コウライウグイスの色彩の濃淡、線の筆法は変化に富み、構図には重厚感がある。これらは宋の画風の名残である。
「茂林」の鈐印が押され、対軸に行書で題が書かれ、「在斉鮑山」の署名があり、さらに「十竹斎書画記」の鈐印がある。この冊の中心、および題の一部に糊漬けの跡が見られるところから、初版の際、胡蝶装と呼ばれる装丁の形式を採用し、後世の人が五鑲式冊頁の表装形式に改め、保存したと推測できる。
文美齋詩箋譜
- 清 焦書卿編 清 張兆祥、王振聲絵
- 清宣統三年天津文美齋彩色套印本
《文美齋詩箋譜》由清末天津坊肆文美齋主人焦書卿(1842-?)邀請知名畫家張兆祥(1852-1908)、王振聲(1842-1922)等繪製花卉圖,合計百幅,並以「餖版」及「拱花」套印技法印製箋紙,再集結成冊出版。
圖左為張兆祥所繪辛夷花,圖下鈐「兆祥」。張兆祥字龢庵,習自惲壽平(1633-1690)沒骨花卉之畫風,為天津著名花卉畫家。辛夷花開時大小如盞,含苞時則如筆頭般,又稱木筆花。焦書卿命人運用「餖版」技法將花、葉各種深淺顏色依序落於紙上,分毫不差,絕妙展現套印技術的精細度與高難度。
圖右出自王振聲之手。王振聲字劭農,一作少農,號爛柯山樵;清同治十三年(1874)進士,工書畫,善繪花鳥。「願花長好月長圓」,以香櫞花及黃色果實呈現花好,月圓,人長久的美好祈願。(許媛婷)
熱河避暑山荘は中国に現存する清代最大の皇室の庭園で、康熙四十二年(1703)に創設され、清の皇帝が秋、狩りに行く際休憩する行宮である。乾隆帝が皇帝の位についた後、更に増築を重ね、山荘の規模はますます大きくなった。康熙五十一年(1712)、聖祖は山荘に主な三十六の景観を採り入れ、それぞれを四文字で命名した。師を作り記録すると同時に宮廷画家に命じて一景一詩、一詩一図を描かせ、詩意の格調、精密な絵図で山荘の自然景観と人文建築の天人合一の境界を呈している。
全書の絵図は沈喩の手により起稿され、武英殿雕印満漢文本二部、漢文本の插絵は西洋の宣教師馬国賢(Matteo Ripa 1682-1745)が中心となり、清の宮廷画家を率いて、図稿に従い西洋銅版蝕刻法で刻印したもので、これは清朝が西洋銅版画印刷術を宮廷版画の製作に用いた始まりである。満文本にある三十六景図は、朱圭(約1644-1717)、梅裕鳳の二人が担当し、木刻雕印した。乾隆六年(1741)、乾隆帝が即位した後、初めて避暑山荘を訪れた時、幼い頃祖父に当たる皇祖康熙帝と山荘で生活を共にした短い歳月を思い出し、山荘の一書を再版する念に駆り立てられた。乾隆帝は皇祖の題詩原韻と詩三十六首をもとに、付図は朱圭が刻した木版印刷をそのまま用いて製作した。
展示されている康熙朝満漢文本、乾隆朝漢文本〈西嶺晨霞〉と〈風泉清聴〉より選択した両絵図は、康熙朝漢文本銅版画は、明暗の分かれ目がはっきりしており、自然の風物も立体的で真に迫り、強烈な写実的特色を有している。満文木刻本插絵は優雅で美しく、伝統絵画の写意を重視する特色がはっきり伺える。乾隆朝漢文本插図は朱圭の原木刻版を用いて印刷しているものの、彫刻板は長い歳月を経ているため、改めて印刷した挿し絵に板の割れ目の現象が見られる。
本図の原名は《盛京吉林黒龍江等処標注戦蹟輿図》である。乾隆四十一年(1776)、清の高宗は将軍弘晌に、東北地区の満漢の訳名をはじめとする山や川、道路、里の状態を描いた大きな絵図の製作を命じた。交通の部分は銅版で新に刻印し、乾隆四十三年(1778)年に完成。全図計一四四幅。満・漢文の地名の音訳を統一した他、明清の重要な戦場、更に戦いの事跡には注釈も標記した。文字は右が漢語、左が満州語で、「源、遠、流、長」の四文字で区域を区分している。当輿図は1頁目が乾隆帝の詔勅と御製詩文、及び盛京等の地図(流七)となっている。全図銅板印刷で、彫刻のラインも鮮明で、字体も力がこもり鋭利で、 十七、十八世紀の東北地区の形勢を了解できる重要な地図である。
《盛京輿図》各図接合表
- 源五
尼布楚等処 - 源四
黒龍江等処 - 源三
積奇哩江等処 - 源二
吉林河等処 - 源一
図克蘇瑚山等処 - 諭旨
- 遠五
索約勒濟山等処 - 遠四
墨爾根城等処 - 遠三
三姓城等処 - 遠二
諾囉路等処 - 遠一
森奇埒河等処
- 流三
克什図山等処 - 流二
松花江等処 - 流一
寧古塔等処 - 遠七
烏蘇哩河源等処 - 遠六
墨徳哩
- 長一
鎮東堡等処 - 流七
盛京等処 - 流六
長白山等処 - 流五
富爾丹城等処 - 流四
墨徳哩
- 長六
山海関等処 - 長五
寬甸堡等処 - 長四
永甸堡等処 - 長三
墨徳哩 - 長二
墨徳哩
《承華事略》は元代の御史王惲(1227-1304)が皇太子真金(1243-1286、フビライの次男)の為に編集した帝王学の専門書である。清光緒二十一年 (1895)、徳宗載湉(ヅァイティヤン)(1871-1908)は南書房翰林に命を下し、この書の各篇の内容を順次に訳して図説にすべしとした。張之洞(1837-1909)が後半の絵図・刊刻・印刷の重責を担った。当時頗る名を馳せていた蘇州の画家達は皆要請され絵図に携わった。5-60名にも至る彫刻師が蘇州・滬(上海)・揚(江蘇・安徽・江西・浙江・福建の各省)粵(広東省)の各地からやって来て、九ヵ月に及ぶ時間と銀七千両を費やし、遂に完成させ献上にするに至った。
全書には四十幅の絵図が附されており、古代の名物制度を突き詰めているだけではなく、線条様式は繊細且つ雅を求めているため、版画雕刻の難度は文字よりも勝っている。当時広く使われ且つ成熟した石印技術は、出版の過程で極めて重視されていた。張之洞は、最後に木刻本、及び石印本を同時に献上した。故宮博物院は二種類の印刷本を同時に収蔵しており、清朝末期の伝統版画の組み合わせによる新しい巧妙な技術の代表作と言える。