古代の書籍の版画は明、清の両代にかけて発展しました。社会の気風の変化、経済の成長に伴い、宋・元以前における四書五経などの儒家経典や、地方の風土紹介などに偏重し、図画を利用して教育や解釈の効果を図るというものから、多岐にわたる題材、成熟した技巧を特長とした版画美学へと徐々に変わっていったのです。
版画による挿絵で書籍への興味を引き付ける方法は、明代の嘉靖(1522~1566年)、万暦年間(1573~1620年7月)以降、最も流行しました。書坊(今の出版社)は莫大な資金を駆使し、著名な画家に挿絵の制作を依頼するとともに、彫刻職人を招いて版画制作を任せました。こうした書籍は書坊に利益をもたらしました。明代では、宋、元以来の地域的な版画の分野が存在し、それぞれが技を競い、さまざまな流派が生まれました。当時は建陽、金陵、武林、徽州、呉興、蘇州などに民間の書坊があり、世襲によって受け継がれてきた版画技術が、それぞれ特色を持っていましたが、これらの特色は、各流派に影響を及ぼしました。
清朝初期、政府が厳しく出版統制を行った影響で、官民それぞれが出版する版画本の発展は明暗を分けました。政府が発行する書籍の版画は謹厳実直で、皇室の功績を称えるとともに、臣民を教育するという深い思惑が背景にありました。これに対し、民間の書籍の版画は次第に衰退し、明代中葉以降の盛況は続きませんでした。
諸仏世尊如来菩薩尊者神僧名経
- 明 成祖 勅編
- 明 永楽15年刊行
『諸仏世尊如来菩薩尊者神送僧名経』の内容は、一万を数える菩薩の名を収録したもので、明の成祖(永楽帝)の命によって編纂された仏教の経典である。宋・元の時代、経典の多くは巻子(かんす)または折本(おりほん)で、長い紙を連結した版画の制作に適していた。明代初期になると、冊頁(さっけつ。書画を1枚ごとに表装)と呼ばれる方法で表装した経典が多く制作されるようになり、これが仏教版画の制作方法に変化をもたらした。この経典の巻頭には、典型的な「仏説法図」の風格がある。これは元の「磧砂蔵経(せきさぞうきょう)」の版画の構図と似ている。版面は参つに分かれており、中央の版面では釈迦牟尼仏(釈迦如来)とその弟子の阿難(あなん、アーナンダ)、迦葉(かしょう)がその核心となっている。前後の版面では、それぞれ8体の僧、4体の菩薩、2体の天王が配され、釈迦牟尼仏の両側には仏教を守護する四大天王、十六羅漢、八大菩薩が表されている。巻末には、仏典には伝統的に配される、将軍のような容貌の韋駄護法像が表されている。
刻京台増補淵海子平大全
- 明 李欽 選
- 明 万暦28年(1600年)、閩(びん)書林 劉龍田喬山堂 刊行
『刻京台増補淵海子平大全』は明代後期に著された命理学(四柱推命学)の名著で、題は欽天監(天文観測や暦の制作などを担当する役所)の承徳郎(官位)を務めた李欽が増補した。万暦28年(1600年)、福建寧府の喬山書舎から刊行された。『明史』第98巻「芸文志参」の記録によると、李欽が題を付けた『淵海子平大全』は全6巻で、五行類星相の属に列せられている。内容は主に、宋代に著された命理学の書『淵海子平』の増補である。命理学の基礎を築いた徐子平(907-960)が確立した「子平推命術」を中核としており、出生した年、月、日の四柱干支を八字とし、人生の運命の道理を推算する。各巻には陰陽五行の生剋(せいこく)、天干(てんかん。甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)天干(てんかん)、地支(ちし。子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)などの基本原理、命宮格局の推算法則などを説明しているほか、記憶しやすいように作られた詩歌などが添えられ、読者に四柱推命を研究する上で便利な方法を提供している。また、これらはこの著作の通俗性、実用性を際立たせている。
新刻出像官板大字西遊記
- 明 呉承恩 選
- 明 万暦年間 金陵(南京) 世徳堂 刊行
国立故宮博物院に収蔵されている『新刻出像官板大字西遊記』は20巻、100回。収蔵の時期、由来は前の作品と同じである。この著作は明の万暦20年(1592年)に金陵の唐氏世德堂書坊から刊行された。現存する最古の『西遊記』といわれている。世界に現存する『西遊記』は4部しかなく、うち3部が日本に、1部が国立故宮博物院に収蔵されている。
巻頭には『華陽洞天主人校/金陵世徳堂梓行』と署名されており、また一部の巻には「金陵栄寿同梓行」あるいは「書林熊雲浜重鍥」と署名されている。歴代の学者はこの刊行に対し、二つの異なった見方をしている。一つは、世徳堂と栄寿堂がそれぞれ個別に印刷した後、併せて刊行したという説。もう一つは、世徳堂と栄寿堂が相前後して刊行した後、福建の書坊(今の出版社)の主人である熊雲浜が金陵本に基づいて改めて翻刻し、刊行したという説である。
牡丹亭還魂記
- 明 湯顕祖 選
- 明 万暦年間 九我堂 版 刊行
『牡丹亭還魂記』は明の戯曲作家、湯顕祖(1550-1616)の代表作である。湯顕祖は「一生に四つの夢、得意とするところはただ牡丹のみ」と語り、この作品への思い入れの深さを示した。この戯曲は55コマから成っている。南宋の時代、南安の太守である杜寶の一人娘、杜麗娘が夢の中で書生の柳夢梅と愛し合う中となり、とうとう恋煩いになって死んでしまう。杜麗娘は自画像と共に埋葬され、その後、鬼(亡霊)となって柳夢梅の夢の中に現れるようになった。杜麗娘はやがてこの世に生き返り、二人は晴れて結ばれた。
本書の表紙の裏に付けられた副葉(遊び紙)には安徽省歙県槐塘の民間の書坊(今の出版社)である九我堂の表記が見られる。挿絵は40幅で、誰が描いたかは分かっていない。挿絵の中には鳴岐、一鳳、端甫、吉甫などの名が刻み込まれており、いずれも明代晩期における歙県の黄氏一族の著名な彫刻家の名である。彫刻の技法は、徽派(きは)と呼ばれる版画の流派の持つ特徴を表しており、それまでの太く豪放な線に代わり、細密で流麗な線が用いられ、構図を重視したものになっている。
紅楼夢図詠
- 清 改琦 選
- 清 光緒5年刊行 画本