典蔵新紀元──清代末期から民国初期の上海画壇,展覧期間  2018.7.1-9.25,北部院区 第一展覧エリア 会場 105、107

 19世紀中期に興った金石書風の影響は絵画にまで及びました。その最早期は呉熙載(1799-1870)が先駆けとなり、後に呉昌碩(1844-1927)という大家も現れ、北碑の用筆や篆刻の味わいを絵画に取り入れて、民国初頭の上海画壇を代表する流派の一つとなりました。浙江省安吉県出身の呉昌碩は30歳頃初めて上海に行き、その後、任頤から指導を受けて絵を描き始め、画家として大成しました。その画風には古拙な味わいがあり、通俗的なものを趣深く表現して一世を風靡したにとどまらず、日本でも人気を博すなど、国境を越える魅力も有していました。呉昌碩の風格は上海で活動していた後輩らにも影響を与え、王震(1967-1938)や、後に北京で活躍する斉白石(1864-1957)、陳年(1876-1970)なども啓発を受けたとされます。「金石花鳥」では、呉昌碩の作品のほか、金石画風に関連する画家の作品も合わせて展示し、清代晩期から民国に渡る金石画風の発展をご覧いただきます。

民国 呉昌碩 藤の花

  1. 形式:軸
  2. サイズ:縦 124.5 cm 横 53 cm

 呉昌碩が81歳時(1924)の作品。描かれているのは藤のみで、ふさ状の花や葉、絡まる枝が画面を埋め尽くしている。これは、呉昌碩のこの種の作品に共通する特色そのものである。
 清代中期から金石学が盛んになると、古代の刻石ならではの素朴かつ重厚な気質が書法や篆刻の表現にも用いられるようになった。呉昌碩の篆刻と書法は金石の気にこだわったもので、その線は古風な味わいと雄渾な趣が強く、絵画の内にもそうした特質を巧みに取り入れている。この晩年の作品は、大胆な筆致に滑らかな運筆が見られ、構図にも工夫が凝らされている。標準的な佳作である。

清 呉昌碩 雪庵袁安

  1. 形式:軸
  2. サイズ:縦 65 cm 横 33 cm

 後漢の役人袁安にまつわる故事を描いた、呉昌碩が49歳時の作品。豪雪で飢饉となり、誰もが食料を求めて奔走している時、袁安だけは家にこもってじっとしていた。その辛抱強く節度ある態度が評価されて孝廉に推挙されたという。
 赤い衣服をまとっているのが袁安である。草庵や樹木、岩石などは禿筆を使い、簡略化して描かれているが、積雪の放つ輝きも残されているなど、呉昌碩の作品にはあまり見られない表現がある。本作は呉昌碩が上海に転居して間もない、1892年に制作された作品である。自題には「我似窮猿悲失木、狂吟踏雪不辞僵」とあり、絵を売りながら生活に汲汲としている自身を自嘲する様が、悠然とかまえていた袁安と強烈な対比をなしており、画家のユーモアも損なわれていない。

民国 呉昌碩 紅梅

  1. 形式:軸
  2. サイズ:縦 129 cm 横 62.1 cm

 高度に西洋化、商業化された上海では、呉昌碩のように中国的な味わい濃厚な作風が人々を魅了し、文人や名士らはもちろんのこと、商人や一般庶民まで、誰もが潜在的な顧客となった。呉昌碩はそうした市場の求めに応じつつ、通俗趣味に合わせた絵を描く合間に、絵画の伝統を対話となす、復古趣味的な情趣をしばしば用いている。
 この作品は、招待された宴席で羅聘(1733-1799)が紅梅を描くのを目にし、その格調高く趣ある風情に触れて、張熊(1803-1886)の一幅を背臨したものである。この時、呉昌碩は81歳、張熊が世を去ってから長い年月が流れていた。二人の親交の深さが知れる。大胆な構図だが、長篇の題跋によって画面のバランスが取られており、木の枝も熟達の画技で見事に表現されている。

民国 王震 桃花群燕

  1. 形式:軸
  2. サイズ:縦 138 cm 横 33.6 cm

 実業家だった王震は政治の世界にも身を投じ、同盟会に加入して革命に参加した。民国成立後、政治上の挫折を経験した王震は、1913年に政界から身を引くことを宣言し、以降は文芸活動や慈善事業などに転向した。それとほぼ時を同じくして、呉昌碩と深い親交を結び、長年に渡って築き上げた実業界の人脈を生かし、呉昌碩の詩文や書画、印を日本の友人らに紹介するなどして、呉昌碩を上海画壇の領袖へと推し上げた。
 この「桃花群燕」は、元代翁森の「四時読書楽」に見られる詩句「落花水面皆文章」を題に、岸辺に咲く桃と奇石を描いた、1925年の作品である。群れなすツバメと桃の花が波打つ水面に映える様子が趣深い。