至元8年(1271)12月、忽必烈(フビライ)は国号を「大蒙古国」から「大元」に改め、元朝の初代皇帝となりました。その後、元朝は南宋を滅ぼし、漠南(現在の内蒙古)も制し、金朝と西夏の故地を接収して、モンゴル帝国の体制から独特の国家がしだいに築かれていきました。至正28年(1368)8月に明軍が大都に攻め入ると元順帝は北方へ逃れ、史書に記される「元朝」はついに終焉を迎えたのです。
この間に中央アジアから中原へ大勢の工匠たちが移り住み、異民族間の文化が衝突し、融合する中で多元的な文化が花開き、多種多様な芸術様式が誕生しました。こちらのコーナーでは、漢族の士人─趙孟頫とその妻管道昇、息子の趙雍一家による書画芸術の継承のほか、筆墨の伝統の中で努力した隠士の呉鎮や倪瓉などの作品をご覧いただきます。このほか、非漢族の高克恭や貫雲石など、それまでになかった新しい様式の書画作品も展示いたします。
宗教美術の分野では、元朝皇族の多くがチベット仏教の発展を支持していたことから、チベット様式の絵画を代表する「達壟寺勘布札希貝唐卡」を展示いたします。新鮮な要素の組み合わせは織物にも見て取れ、伝宋戳紗(刺繍)「開泰図」が一例として挙げられます。緙絲(つづれ織りの一種)作品の「宝生如来」が製作されたのはおそらく元より後の時代だと思われますが、明代前期の作であることは間違いなく、この作品のモチーフを見ると、元代の文化交流の中で誕生した工芸美術の成果が明代前期まで続いていたことが知れ、元代の多元的文化に育まれた芸術様式の精彩さもよくわかります。