故宮が所蔵する善本図籍及び文献薄冊は約六十万点あり、文物全体の量から観て最も豊富であり、人々が古籍版本、保存書類と地図、及び仏教経典を研究する際の殿堂となっています。九十年の間、スタッフ達により守られ、受け継がれてきた宮廷の収蔵文物や編纂または印刷刊行された書籍はますます豊富になり、そうしたことに制限がないため、故宮は収蔵文物に秘められ、蓄積された学術資源の視野の拡大に努めてきました。総合して見ると、これまで、引き継ぎ、購入、または各界からの寄贈図書文献の数は六万余点に達しております。多方面に於いて、秋蔵品の質充実し拡大している他、更に寄贈者の公の心と末永く伝え残そうとする高尚な精神が至る所に流露しています。


本コーナーでは五つの小テーマを企画し、異なる類型の新規に収蔵文物として加えられた貴重な図書文献を展示致します。「天府遺珍」では、一旦離散し、再度収集された清代宮殿の文物を展示しており、特別の意義を有しております。「名刻精槧」(名刻版本)では、宋・元代を含む民国初期までの木版、古籍善本を展示しており、稀少価値を有する貴重な秘蔵書籍の宝をご鑑賞頂けます。「儒賢手沢」(先哲賢人の筆跡)では、名家の著作の手書き原稿及び日記・書簡を展示しており、教養に満ちた先哲による徳化うるおう著述に親しみ、更には時勢の曲折した歴史の境地をご覧頂きます。「宗教経典」では仏教とイスラム経の貴重な典籍を収集し、古今千載、欧亜万里の信仰の力を最も顕著に体現しています。「皇輿版籍」では東方、西方の製法で描かれた古地図、及び台湾早期の土地売買契約書を選んでご紹介し、院収蔵の書籍に新たな色彩を加えます。

天府に残された宝物

清代王室の宮廷の装飾品、古文物のコレクションと文化面での功績は、国力の衰退を推し量るに余りあります。離合集散は、複雑多端な歴史が背景にあります。清初の彩色画〈京杭運河図〉は、色彩鮮やかで美しく、符号が精緻で詳細です。清代、内府より海外に流出した後、再び本院に戻ったものです。院の所蔵する運河図の中で、唯一観賞と実用の意義を備えた最も代表的な作品です。《四庫全書》は、乾隆帝の勅命で編集された巨大学術プロジェクトで、南北に建てた七つの楼閣、緗縹万巻の輝かしい成果も、わずか数十年を維持しただけで立て続けの災難に遭い、そのおおかたを失いました。本院は四庫全書を蔵する楼閣の一つ文淵閣の名高い書物全書を保管している他、文瀾閣の散逸を免れた一部を購入し、完全とは言えないまでも、参考の一助となっています。「天禄琳琅」も、乾隆帝により作られた善本コレクションですが、残念ながら度重なる破壊により散逸してしまいました。嘉慶初年の大火事に始まり、後に清末の宮廷使用人による窃盗、更には溥儀による大量の運び出されました。今では約半数の善本が本院に収蔵されています。長年、新たに加わる書物の中には、離合収集の天から授かったと言える貴重な書物が見られ、一見する得難い機会でであると信じております。


京杭運河図

  1. 清康熙雍正間彩絵本
  2. 本幅サイズ:78.6 × 2,050cm 全幅サイズ:86.4 × 2,700cm

京杭運河図は絹本彩色画の長巻で、東から西に向かい、杭州湾から京師の西、八達嶺長城一帯の山脈までを描いている。京杭運河の流れを主体とし、沿線の川筋、山脈、泉源、湖、水門、堤、さらに沿線の街、名称古跡などが詳細に描き込まれている。図題(タイトル)がない上、制作者名および制作時期が記されていないものの、海面に波紋が見られ、「儀真県」が「儀徵県」に改名されていないことや、中運河の工事の様子、さらに盧溝橋などが描かれているところから、康熙三十七年(1698)から雍正元年(1723)までの間に制作されたと推測される。


作品は伝統的な山水画の技法が取り入れられ、描写はリアルで、色彩は鮮やかで美しい。また見下ろした角度が絶妙で、自然の景観や人、物などの動きが精妙に描き出されている。


この作品は清の康熙年間における運河、水利工事の実情を忠実に描写したものである。描写が精妙で美しいだけでなく、運河全体の様子が表現されているところが貴重である。描写の内容はバラエティーに富んでいる。例えば杭州から北京へ向かう船が、時に帆を張り、時に帆を下ろし、航行が危険な場所では人々が綱で船を引っ張って進む様子、川や湖と交わる所、水門、土手、街の様子、名勝古跡、兵営、山の姿などが詳細、精緻に描き出されている。まさに清代の運河図を代表する作品である。

京杭運河図

名刻精槧(名刻版本)

木版印刷技術は、中国古代学術の発展と文化景観に変化をもたらした重大発明であると言えます。慎重且つ厳密に行われた校勘、非の打ち所なく完全に彫刻された木版は、適切な保存と修復をを行えば、その寿命は数百年にも及び使うことができます。古人の知恵を集めると同時に、紙、墨、彫り、印、装丁等を結合した多重技芸が成就した図籍は、先人からの学問の流れを伝承し、引いては思潮が新に変化した種子の如く、その影響は深遠です。本コーナーでは、歴代の珍しい木版を展示し、宋代に刊行された孤本から民国の一代叢書まで、それぞれが貴重な版本の比較研究の資源を蔵しております。刻印の慎重且つ厳密さ、紙墨の精緻優雅さを論ずると、必ずや驚嘆し引きつけられることでしょう。文物、芸術価値と学術の内包を兼備えていると同時に、独特な時代の姿を呈していると言うことができます。一部の善本には鈐印(けんいん)が連なり、その中に名家が讃美する題識が書かれており、これによって収蔵家の跡を辿る他、文字の行間にも書物への深い愛しみが現れており、人の誼を感じさせられます。書籍には知識が記載され、書により生じた著述、製作、閲読、収集及び観賞は更に物質と精神の大きな世界を創造しています。


新刊山堂先生章宮講考索

新刊山堂先生章宮講考索

  1. 宋 章如愚編
  2. 宋刊巾箱本
  3. 版框の高さと幅:10.5 × 6.7cm
  4. 書冊サイズ:14.1 × 8.9cm

南宋の章如愚が編纂した『新刊山堂先生章宮講考索』は『山堂考索』『群書考索』とも呼ばれる。章如愚、字(あざな)は俊卿、婺州金華の出身。宋の寧宗の慶元年間に進士となった。生没年は不明。章如愚は政策を批判する文書を奏上したため、時の宰相の韓侘冑(?-1207)に疎まれ、職を失い、故郷に帰って山中で講義を行った。死後、門人から「山堂先生」とおくり名された。


『山堂考索』の原刻本は十門、百巻、十集に分かれていた。現存する版本は宋の呂中が増補、再編したもので、前集、後集、続集、別集合わせて四十六門、二百十二巻に膨れ上がった。本院に収蔵されている本書は、南宋の書店が儲けのために売り出したもの。増補本の印がある巾箱本で、後集「官制門」一集十巻、合計十冊しかないが、全書とされた。


第一冊の末尾には袁克文(1889-1931)直筆の表記と「春日雑詩之一」が見られる。袁克文は字を豹岑、また寒雲とも称した。袁世凱の次男。詩書を熟読したほか、書法にも精通し、文物の収集にも努めた。


本書には歴代の政策や宮廷での礼法、規則などについて収録されている。内容は類書の性質を持つが、経、史、百家の著作を引用し、さらに自分の意見も添えているほか、類書よりも作者個人の編纂意識、著述の意思が備わっているところから、資料とされる類書とは異なる。


巾箱本とは巾箱(布を貼った小箱)に入るほどの小さい本ということで、今日のポケットサイズの本に当たる。南斉の衡陽出身の王蕭鈞(473-494)が自分で書写した『五経』を忘れないように巾箱に入れたのが巾箱本の起こりで、これを諸王がまねるようになった。その後、小さくて持ち運びに便利なところから、科挙の受験生が試験に臨む際に用いるようになった。宋以降で非常に流行した。ただ書籍の刊行において、軽くて便利なことが重視され、品質が重んじられなかったため、今日まで伝えられている巾箱本は少なく、本院に収蔵されている本書はきわめて貴重である。


新刊校定集注杜詩

新刊校定集注杜詩

  1. 唐 杜甫撰 宋 郭知達集注
  2. 宋寶慶元年廣東漕司刊本
  3. 版框の高さと幅:23.5 × 18.2cm
  4. 書冊サイズ:31.4 × 22.2cm
  5. 沈仲濤先生寄贈

『集注杜詩』は詩聖と呼ばれる杜甫(712-770)の詩について詳しく解説、論評したものである。『天祿琳琅書目』の初編第三巻、宋版集部に収録された『九家集注杜詩』、宋の宝慶元年(1225)の広東漕司本、さらに『四庫全書』の収録本があり、非常に貴重な書物である。


本院に収蔵されているこの帙(ちつ)は、もともと清朝末期に常熟の著名な蔵書家である瞿氏の「鉄琴銅剣楼」に収蔵されていた。第二次世界大戦が始まると沈仲涛氏が購入して「研易楼」に保管し、その後に本院へ寄贈した。民国七十四年(1985)、本院の六十周年にはすでに当初の方法で装丁、印刷、出版した。これにより、この貴重な書籍が世に広められた。


儒賢の手沢

古今の著名な学士による手書き、或いは修正稿は、著作のオリジナル性と伝存という希少性を有しているため、時には優れた刻印の書籍より珍重されます。本コーナーの四部分の展示は、異なる歴史的意義と学術的価値に分類されています。《守城全書》は、当代の作家黄裳、「来燕榭」の旧蔵で、「澹生堂」の後人、祁彪佳が、国家動乱の時局の下、故郷や街を守るために採録し編集された著作で、時代が変わる際、自らの身を処するに命を選択すると論じています。《説文解字義証》は清代乾隆年間に段玉裁と併称された小学大儒、桂馥が畢生の力を傾けて書き上げた力作で、論拠が豊富で、且つ引用の書物も多く、逝去一年前に自らが校訂し、絶筆の作となりました。清朝晩期の重臣曾国藩の日記と書簡からは、彼の日常生活に於ける弁明、省察を充分に窺い知ることができます。歴史人物と歴史的事件に最も臨場感を以て接することができます。当代文学の大家林語堂の創作手書き原稿は、後世の人々に古今を連なる一本の道と異なる文化伝統の学術を悠々自適に行き来する手本を残しました。


守城全書

守城全書

  1. 明 祁彪佳撰
  2. 明崇禎間著者稿本
  3. 書冊サイズ:29.3 × 18.6cm

本書はもともと黄裳が所蔵していたが、後に故宮博物院が買い取った、このため黄氏の題詩、印が残っている。『祁忠敏公日記』は崇禎十一年(1638)末、編纂が予定された。その後、このことが記された。黄氏の題詩にはこれが詳しく記されている。ただ日記の内容は、黄氏の挙げたものだけにとどまらない。


この書は「守之用」「守之具」「守之案」「守之訓」「守之余」の五つに区分されている。人の組織、動員規模、武器装備、歴代の事例および関連の文書、法令のいずれについても触れられている。「守之余」では祁氏(1602-1645)が明の人に対する郷兵、民兵、保甲制度、盗みの禁止などについて論じており、非常に興味深い。巻一「誓約」の項目では、祁氏は「開封府の周王はこの法を用い、以て保全とす」の一文に朱筆を加えている。これは、李自成(1606-1645)が開封を攻めたことを指しており、祁氏が時事について相変わらず強い関心を持っていることを示す。


この書はまず他人が書写したものを祁氏が書き改めている。このため筆跡、墨の色に異なったところがある。さらに何度も編纂されているため、用いている紙が違っていたり、上から貼り付けたりしたところがある。このほか「図は某書にあり」という字句がしばしば出てくることから、挿絵の配置をかんがえていたことがうかがえる。さらに「空行」「接下(続けて)」といった字句が多く見られるところから、後から追録する予定だったことが分かり、この書は未完成といえる。しかしその著述の意図はうかがえ、祁氏個人についてはもちろん、明末の歴史を研究する上で非常に貴重な史料である。

宗教経典

台湾遷移後の本院の寄贈や購入により収蔵された宗教面の文献は、仏教が大多数を占め、次いで道教、そしてその他の宗教文献も一部収蔵しています。仏教の文献は大きく二分することができます。第一類は漢文の仏教書籍で、沈仲濤氏により寄贈された数部の宋本仏教の経典が最も代表的です。購入した文献中、二部は宋の「崇寧藏」刊本、もう二部は元の「磧砂藏」刊本にそれぞれ属し、いずれも今日では入手し難い仏教経典の刊本です。その他の多くは明・清時代の刊本です。第二類は盧鐘雄氏の寄贈による百部以上にのぼるミャンマー文字による南伝仏教の貝葉経典で、殆どが十八、十九世紀のものです。言語は巴利文とミャンマー語のいずれも存在します。道教と民間信仰の類の文献に至っては、多くが明清時代の刊本です。この他購入した文献の中の二部は、十六世紀の《コーラン教》で、その源はトルコオスマン帝国及びインドムガル帝国であり、イスラム書法の代表傑作と言えます。


古蘭経

古蘭経

  1. 約1560年イラン写本
  2. 書冊サイズ:41.5 × 28.5cm

本院が収蔵する『古蘭経』は、イランのサファヴィー朝(1502-1736)がトルコのオスマン帝国(1299-1923)の帝室のために制作したもの。ダマスカス長官ヒュセイン・パシャ(?-1595)の賛助を得て、『古蘭経』は書籍芸術の発展がピークを迎えた時期の作品となった。サイズは大型で豪華な製本である。装丁の形式は16世紀のイランで制作された当時のものが残されている。折り返し式の綴じ込みが特色である。皮革を使った表紙には黄金の格子紋と、その周囲を囲む装飾が施されている。また金と藍の背景には精細な金糸、銀糸の装飾があり、その精緻さはまさに非凡である。


本書は全三百ページ余り。経文は流麗なアラビア文字のナスフ体で書かれている。朱と黒の墨による発音記号や標記が付けられている。この『古蘭経』の彩飾工芸は典型的なサファヴィー朝の風格を表している。巻頭には見開きで六枚の花弁を持つ大きな花びらが一対になった装飾があり、さらに表題とその枠、文字の周囲の飾り、詩句の標記などがあり、それらを囲むように華やかな色彩の渦巻文が施されている。中国から伝わったとされる雲文が金と藍の背景に配されて壮麗な輝きを浮き立たせ、精細な枝や蔓、つぼみに生き生きとした活気を与えている。一部の経文には花や蔓、金色の背景が描かれている。これは当時のイスラムにおける『古蘭経』の工芸的な特色であり、経典に対するムスリム(イスラム教徒)の敬虔な気持ちを表している。

皇輿版籍(王朝地図版籍)

土地と人口は、国家を構成する基礎的要素であり、また国家が領土を守り、税の徴収の為に行う政策の重点でもあるのです。歴代政府が役職を設け、役人を任命するその根本的な目的は、辺境地域の統治と戸数、人口、土地の管理を強化することにあります。全国地図を作成し、土地売買等のルールーを規定し、更に国家の政治を行う確固たる権力を打ち立てる為の具体的手段です。また間接的には、西洋諸国がオリエント帝国を探求する主要な手がかりとなり、更にアジアに関連のある異なる形の古地図が生まれ、珍しい地図と土地売買契約文書等の文献として後世に残されました。


本コーナでは本院が最近数年来、新規に収蔵に加わった文献を精選しました。それらには、民国九十一年(2002)に新たに購入した〈大清万年一統天下全図〉をはじめ、九十三年(2004)年に日系ドイツ人飯塚一教授より寄贈されたアジア古地図、及び九十四年(2005)台中東勢の詹家の寄贈による土地売買契約文書等が含まれます。これらの地図文献は本院の収蔵の内容を豊富なものとし、更に本院スタッフや研究者の研究領域を開拓し、展示の充実を図ることができ、ご来館の皆様のために、日増しに多様化する収蔵品を展示致しております。


大清萬年一統天下全図

大清萬年一統天下全図

  1. 清嘉慶十六年彩絵本
  2. 本幅サイズ:130 × 31.7cm
  3. 全幅サイズ:190 × 260cm

図題は『大清万年一統天下全図』で、図の右側に「乾隆丁亥年(三十二年,1767)の間、余姚(地名)の黄千人(1694-1771)、字(あざな)は證孫、その祖父は黄宗羲、父親は黄百家で、二人はかつて天下輿図を制作した。その中で山川、境界はすべて邑(ゆう)で区画し、それらは星あるいは碁盤上の石のように一面に分布しており、分かりやすい」、しかし「この図はこれまでに何度も翻刻、出版されてきたが、今回は特別に一幅の屏風を制作する」とある。全図は八つの図版を組み合わせてできており、図稿は余姚の黄千人の旧図を増補して作成した。


図中には「全図内、毎方寸百里」と注記されている。しかし座標は記されておらず、説明文の中に図例を挙げて意味を示している。全図に描かれている範囲は非常に広大で、東は朝鮮半島から西はパミール高原まで、北は黒竜江まで、南は南海諸島(南シナ海の諸島)までに至る。しかし主要なのは、清朝中期の自然環境および行政区画、および万里の長城の各関などの設備である。沿海の諸島には名称と説明が付いている。このうち台湾島の上には「東に行くと番界、人跡至らず、府境は南北の長さ二千八百四十里、東は大山番界五十里に至る」と記されている。西には当時の府、県の行政区画が描かれている。図の左上はやや欠損している。しかし、わずかな文字でどうにか各国の状況を説明している。図では行政区画、山や川、海や島、さらに長江と黄河の二大河川が描かれている。二大河川は水源から海へ流れ出るまで、ほぼ完全に描写されている。黄河の源は鄂霊湖、査霊湖および星宿海一帯で、実際の水源に近い。しかし長江の水源については岷江としており、誤ったまま伝わっている。