故宮の豊富な書画の収蔵は、一日にしてできあがったものではありません。本院が創立当初に収蔵した書画は清代宮廷の庫蔵より受け継いだものであり、歴代王朝により累積された逸品です。民国三十八年(1949)、国民党政府が台湾に遷移した後、更に収蔵物を拡充し、積極的に書画文物を購入した他、社会各界の知名人士、収集家、及び機関団体による寄贈を受け入れ、永続発展の基礎を打ち立てました。数十年来、新たに書画作品を加え、その数は六千点を超えています。
新たな収蔵文物として加えられた書画は、その質が極めて良く、例えば明末の遺民、揚州八怪の作品は、本来清朝宮殿に於いては比較的収集面に乏しい作品に属する類のものです。また早くに散逸した民間の清朝宮殿旧蔵の書画名跡も本来の場所へ戻り、適切な状況下で保護管理されています。十九世紀の末葉と故宮博物院が台湾に遷移へ移設されて以来、重要な書画家の逸品が収蔵物に加わったため、故宮が本来所蔵する範囲、及び所蔵品の時間の縦軸を大幅に拡大しただけではなく、内容が豊富且つ多様で、歴史の変遷の軌跡を充分に反映し、故宮に於ける書画所蔵文物に新たな局面を開きました。この度の特別展では、歴年受け入れた寄贈品や購入書画を計二十四点精選しました。多くの快く寄贈してくださった方への敬意を表すると共に、故宮の長年にわたり積極的な収蔵品収集の成果も具体的に体現しております。
元 呉鎮 嘉禾八景 巻
- 本幅サイズ 37.5 × 566cm
- 紙本水墨
呉鎮(1280-1354)は浙江省嘉興の出身で、字を仲圭、後に梅花道人と号した。山水画を五代の巨然に学び、墨竹画を文同(1018-1079)に学んだ。呉鎮は先人の長所を取り入れて自分の技とし、独自の風格を作り上げた。水墨画は雄渾で迫力に満ちている。呉鎮は元代を代表する画家となり、黄公望(1269-1354)、倪瓚、王蒙(1308-1385)と共に元末四大家と並び称された。
「嘉禾八景」は嘉興付近の八カ所の景勝地を描いた作品で、「空翠風煙」「龍潭暮雲」「鴛湖春暁」「春波煙雨」「月波秋霽」「三閘奔湍」「胥山松涛」「武州幽瀾」の八つから成る。全体に作品の構図は簡略で、景物はいずれも嘉興の山水をリアルに描出し、その傍らには八景にある寺や廟、湖、岩、亭(あずまや)などについての説明文を添えている。例えば「空翠風煙」の中の空翠亭、三過堂、本覚禅寺、檇李亭および万寿山などである。画風は淡雅で素朴な味わいがある。大自然の静かで落ち着いた、しかも典雅な情緒が描出されている。
巻頭には、呉鎮が草書で記した題識、至正四年(1344)の款署がある。時に六十五歳、晩年に近い時期の作品である。画幅の右下には千字文の第七五三「渠」の文字がある。
この作品はもともと項元汴(1525-1590)が所蔵していた。その後、羅家倫氏(1897-1969)の夫人、張維楨女士(1901-1993)から民国八十四年(1995)に本院へ寄贈された。
北宋 蘇東坡 書黃州寒食詩 巻
当作品は展示限定作品です。展示期間:2015年10月6日~11月16日- 本幅サイズ 34.2× 199.5cm
- 紙本
北宋の文豪蘇軾(1037-1101)、字は子瞻、号は東坡、四川眉山の人で、文学史上では唐宋八大家の一人として讃えられ、書法史上では與蔡襄(1012-1067)・黃庭堅(1045-1105)・米芾(1051-1107)と並び、北宋の四大書家と称されている。元豊二年(1079)、蘇軾は左遷されて、黃州(湖北黃岡)に流され、三年目の四月の寒食日(清明節前二日の節句)、季節の変わり目と生活の困窮、役人としての進路の挫折を感じ、〈寒食雨二首〉を作り、その後、この巻物に書いた。蘇軾の詩中に現れる波乱起伏の情緒は、奔放な筆致の下に、已に一方に傾いて錯落した様や豪快な姿に化している。この巻物は、宋代から今日に至るまで九百余年を経ており、後の世の人は、蘇軾存命の頃の最高傑作と讃えている。黃庭堅は、大観四年(1100)、旧暦の九月以前に此の巻物に題跋を書き入れており、その字体は大きく、東坡の詩文を超えている。「無佛処称尊」と謙遜しているが、永い年月群を抜いてきたこの作品は、双方共に美を有している。民国七十六年(1987)に購入し収蔵。
解説: 自分が黄州に来てから、すでに三度の寒食が過ぎた。毎年春をゆっくり惜しもうと思うが、春はさっさと過ぎて行ってしまう。今年の春も雨が多かった。二カ月の間秋のような寂しさだった。寝ながら耳を澄ますと、カイドウの花が落ちて、泥まみれになる。夜半暗闇の中に力持ちが現れて、その花を持ち去ってしまった、病気で長らく寝ていた少年が、床から出たときには、白髪頭になっていたなどと、いうことにならないように気を付けよう!
水嵩を増した春の長江が戸口の中まで浸水しそうだ。雨が降り続いてやまないからだ。この小さな家は漁舟のようなもので、濛々と立ち込めた霧の中にたたずんでいる。何もない台所で粗末な野菜を煮る。竈には湿った葦をくべる。これでは今日が寒食だと誰が知るだろう。烏が紙をくわえている事で密かにわかる程度だ。宮中に至ろうにも君門は九重の奥にあり、故郷に帰ろうにも万里を隔てた彼方にある。あの阮籍が道が極まったといって泣いたように私も泣こうか、竈はいくら吹いても火がおこらないから。(右は黃州寒食二首)
宋 朱熹 易繫辞 冊
- 本幅サイズ 均36.5 × 61.8cm(十四開)
- 紙本
朱熹(1130-1200)は字(あざな)を元晦(げんかい)、後に晦庵(かいあん)と号した。徽州婺源(現在の江西省)の出身。紹興十八年(1148)に進士となり、「考亭先生」と称された。朱熹が著わした『四書集注』は孔子の学説を詳述したもので、南宋の役人や学者、科挙合格を目指す者にとって必読の書となり、八百年近くにわたり中国の思想に影響を及ぼした。
この冊に収められているのは『易経』の<繋辞>上伝・下伝、<説卦伝>で、合わせて十四開。この、僅かに現存する朱熹の墨痕鮮やかな力強い作品は元、明の両代を経て、清朝の乾隆時代に宮廷入りし、《石渠宝笈、初編》に収められた。1行にわずか二文字しかなく、字体は上部が重く、下部が軽い。筆勢には落ち着きがあり、筆は素早く運ばれている。まさに快刀乱麻を斬るような勢いにあふれている。文字はほぼ直線で、力強い。墨の色は濃く、かすれた部分も見られ、いかにも豪快な気風が表れている。まさに古代から伝えられた大字書道の中の佳作である。林宗毅氏(1923-2006)から民国七十二年(1983)に本院へ寄贈された。