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展示概要

 書法とは、漢字文化圏特有の芸術であり、古くから中国文化の伝統の中で体系化され、日常生活にも深く根付き、古今を通じて人々に親しまれています。古より今に至る中国書道史発展の過程には、多くの人々が深い関心を寄せており、この度の特別展はそれらをご覧いただくために企画されました。

 秦漢時代(前221-220)は書道の発展における重要な転換期です。まず夏、殷、周三代以来、枝分かれしていた古文と大篆、銘刻が統一され、標準的な書体─小篆が誕生しました。一方、春秋戦国時代に登場した隷書は篆書が簡略化されつつ成熟し、漢代には一般的な書体となりました。簡略化を推し進める風潮が盛んになるにつれ、隷書も変化と分化を繰り返し、その結果、草書と行書、楷書が生まれました。書体は絶えず変遷を繰り返し、魏晋南北朝(220-589)に至ると、過渡的な書風や書体の入り混じった表現が現れるなど、長い年月をかけて変化する中で、結体や筆法が自ずと規律化されていく様子が見てとれます。

 続く隋唐時代(581-907)も重要な時期の一つにあたります。政治上の統一によって南北各地の書風が合流し、筆法が完成され、楷書が歴代を通じて使用される書体となりました。宋代(960-1279)以降、著名な書家の書蹟を後世に伝えるため、法帖が盛んに作られるようになりました。しかし宋代の書家は古典の継承だけでは飽き足らず、自分の個性や自然の趣を表現しようとしました。

 元代(1279-1368)に至ると、復古が提唱され、晋唐時代の書法の伝統が継承された一方、伝統に束縛されない意識もしだいに高まり、明代(1368-1644)になると、縦横に筆を揮う奔放な書風が登場しました。明人の書は非常に多彩な様相を呈し、行草書の表現は特に自由奔放で、当時のあくまで伝統に則った書法と対比をなしています。その間に個性を発揮して自らの書風を確立した書家も時代の波に呑まれることなく自己表現の道を歩みました。

 清代(1644-1911)以降は、三代及び秦漢時代の古文や篆書、隷書などが相継いで出土しました。これは書法にとっては天の恵みだったと言えましょう。実証的な考証学が勃興する中、書道界にも金石学が興り、刻石と法帖を照らし合わす事によって、書法の発展に古今の繋がりが見出せるようになったばかりでなく、篆書と隷書から古きを学びつつ新しい創造を目指すことが可能となり、新たな方向性が導き出されたのです。

展示作品解説

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  • 巨幅の名作

  • 宋紹熙五年重修山河堰碑墨拓本 横披

      晏袤、字は亍徳。南宋臨川(現在の江西省)の人。北宋宰相で文学者でもあった晏殊(991-1055)の四代目子孫にあたり、宋代隷書を代表する人物。紹熙年間(1190-1194)に陝西南鄭県令に任ぜられた。その地にある中国最古の人口トンネルに彫られた石門摩崖13品のうち、3品が晏袤の手による。今回は石門に加えて、南北山崖104種の摩崖中最大の石刻「重修山河堰碑」も展示する。紹熙5年(1194)に石門トンネルの岩壁に刻された。結体は大きく開き、雄大な雰囲気がある。

  • 筆墨見真章—故宮書法鑑賞ガイド

  • 宋上官佖篆書陶穀撰重修涇州回山王母宮頌碑

      宋太祖開宝元年(968)、涇州で回山王母宮の修築が行われ、翰林学士陶穀(904-970)が頌文を書き、自ら碑文と碑額も書いたという。陶穀は文才に恵まれてはいたが、人品に関しては多くの議論がある。この碑の建立後、56年の間に2磨3刻されている。1回目は建立から30年後で、篆書の大家夢英が書き直した。2回目は宋仁宗天聖3年(1025)で、員外郎上官佖は夢英の書法を好まず、玉箸篆で書き直して刻した。今回は上官佖の篆書拓本を展示する。

  • 漢開通褒斜道石刻墨拓本 軸

      台静農氏旧蔵。正式名称は「晏袤釈鄐君開通褒斜道」だが、「小開通」とも言われる。漢永平9年(66)、漢中太守鄐君が刑徒2,690人を使役し、3年の歳月を費やして褒斜桟道を建造したと記した摩崖が「大開通」である。宋紹熙5年(1194)、大開通の筆法を模倣した釈文が傍らに刻されているのを晏袤が発見したが、その後、苔に覆われてしまった。清代乾隆年間に陜西巡撫畢沅(1730-1797)が収集に訪れた際に再び発見された。その拓本が次第に流伝したが、大開通は晏袤の釈文に記されているものより三十数文字少ない。

  • 漢開通褒斜道刻石

      束雲章氏(1886-1973)旧蔵。束鍾澄清女史寄贈。正式名称は「鄐君開通褒斜道」だが、「大開通」とも言われる。現存する後漢最早の隷書摩崖。用筆は柔らかだが力強く、篆書の筆法を帯びている。体勢には古朴な味わいがあり、豊かな気勢に満ちている。結体は独特で、大小様々な文字が巧みに配置されている。金石文字学者の楊守敬(1839-1915)は本作について、「その字体は長短広狭が不揃いで、自然で古雅な趣があり、石紋のようである。何世代過ぎようと、模倣する術はない。」と評し、神品と絶賛している。

  • 魏王遠石門銘墨拓本 軸

      「石門銘」は北魏の正書摩崖刻石で、「泰山羊祉開復石門銘」とも言われる。北魏永平2年(509)に典籤太原王遠が書丹、石師の武阿仁が文字を彫った。北魏梁、秦二州刺史羊祉(458-516)が武帝の詔命により、二百年以上もの間、不通となっていた褒斜道南段の復旧工事を行い、発起人と責任者の功績を讃えてこの石門銘を刻した。「石門銘」の筆画には丸みがあり勁健で、滑らかな運筆には飄逸とした味わいがある。角ばった方筆の多い魏碑書法の中では、特異性が際立つ。

  • 漢石門頌墨拓本 軸

      「石門頌」は後漢建和2年(148)に褒斜道(現在の陝西省)の石門岩壁に彫られた。断崖絶壁に築かれた桟道の復旧工事完了を記念したもので、困難に屈することなく、褒斜道の復旧について幾度も朝廷に上奏した楊孟文の功績を讃え、「司隸校尉楊孟文頌」とも言われる。

      この碑の用筆は丸みがあって力強く、素朴な味わいも感じられ、結字は大きく開いている。漢隷の新奇かつ豪放な書風を代表する作品である。建寧5年(172)洛陽「郙閣頌」、建寧4年(171)甘肅「西狹頌」と並んで「漢三頌」と称され、後世に大きな影響を与えた。

  • 宋欧陽修集古録跋 卷

      欧陽修(1007-1072)、字は永叔、号は酔翁、晩年の号は六一居士。江西盧陵(現在の江西省吉安市)の人。この作品は全て楷書で書いてある。結字は謹厳で、用筆を見ると横画は軽く、縦画は重い。提按と頓挫は明瞭で、平静に見えるが、内に秘めた躍動感があり、清らかで脱俗的である。「漢西嶽華山碑」、「漢楊君碑」、「唐陸文学伝」、「平泉山居草木記」─4段が1巻に合装されている。治平元年(1064)に書かれたもので、欧陽修の金石学に関する著作『集古録跋尾』の稿本と考えられる。

展示作品リスト

作品名 展示室
唐 高元裕碑墨拓本 202
宋 篆書千字文序碑墨拓本 202
宋 晏袤重修山河堰碑墨拓本 202
漢 開通褒斜道刻石 204
漢 石門頌墨拓本 204
魏 王遠石門銘墨拓本 204
宋 釈夢英書張仲荀抄高僧伝序 204
宋 上官佖篆書陶穀撰重修涇州回山王母宮頌碑 204
宋 欧陽修集古録跋 204
宋 晏袤釈鄐君開通褒斜道石刻墨拓本 204
明 申時行書詩 204
清 人緙絲乾隆書四得論卷 206
清 夏宗輅画寿字花卉 206
民国 李叔同隸書心経 206
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