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展示作品解説

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  • 明 仇英 「秋江待渡」

    • 形式:絹本 着色
    • サイズ:155.4x133.4cm

なぜ仇英の「秋江待渡」が国宝に?

  「秋江待渡」には、旅人たちが川のほとりで渡し舟を待つ、秋の光景が描かれています。今からおよそ500年前の名画家仇英の作品です。仇英の作品中、現存する唯一の大型全景式山水画の名作です。

全景山水の新しい様式──「広大な川面」+「遠方の主山」

  大多数の「山水画」は山景を主体として描かれていますが、「秋江待渡」は水景が中心になっています。蛇行しながら流れる広大な川の水面が「秋江待渡」の主旋律を構築しており、観る者を山光水色の世界へと導き、それが川べりの斜面にも繋がって、大きく開けた平遠な風景が広がります。遠景に聳え立つ主山が風景全体の広壮かつ雄大な雰囲気を高めています。巨大な主山を画面に聳えさせ、あらゆる景物が含まれる全景式構図を強調して描くのは、北宋山水画の典型的な描き方です。明代に至ると、このような構図は宮廷画家が皇家の威厳をかもし出すために模倣した以外、あまり見られないようです。しかし、「秋江待渡」は広大な川面と遠方に悠然と聳え立つ主山によって、北宋巨幅山水のように迫力ある宏壮な眺めが表現されています。多数の宋元絵画を臨模した仇英は、古くからの伝統的様式に新しいアイデアを加えるのを得意としていました。「秋江待渡」は仇英が創造した全景山水の新たな様式で、耳目を一新する風景画となっています。

  • 明 仇英 「秋江待渡」
  • 明 仇英 「秋江待渡」
  • 明 仇英 「秋江待渡」

「秋江待渡」に描かれている岸辺の景物は、手前のものは大きく、遠方のものは小さく描いてあり、視覚的に理に適った表現となっています。例えば、同じく水辺に生い茂る葦でも、近景と中景、遠景では繁簡が異なっています。

碧玉の如く清らかに潤った山体

  • 碧玉の如く清らかに潤った山体
  • 宋 夏珪 〈溪山清遠〉 局部

  「秋江待渡」の山石に使われている斧劈皴と、水をたっぷりと含ませたぼかしを見ると、南宋夏珪の「渓山清遠」に見られる、山の鋭角的なラインがくっきりと描かれた、透明感と質感のある山体を思い出します。仇英は山体の表面を明るい青緑色で薄く着色することにより、碧玉のように清らかで、潤いの感じられる山石にしています。赤や緑の木々で山裾の水辺に彩りを添え、山石の質感が強調されており、より一層鮮やかな画面となっています。

生き生きとした人物

  「秋江待渡」は人物もドラマチックに描かれています。前景の岸辺に腰を下ろしている白衣の文士は、楽しげな表情を浮かべつつ、物思いにふけっているように見えます。対岸の舟上で出発を待つ乗客らは何やら話し合っているようで、年長者が眉を顰めて話しており、もう一人がじっと聞き入っています。岸には荷物を背負って、大股で歩いてくる青年もいます。舟に乗ろうと大急ぎでやって来たのでしょうか、笑みがこぼれています。こちらに背を向けた船頭は、早く舟に乗れと青年に大声で呼びかけています。主役であれ、脇役であれ、仇英はこれらの役を担う人物に顔立ちや表情、姿形を与え、今まさに川を渡ろうとしている人たちの姿や表情が見事に描写されています。

  • 生き生きとした人物
  • 生き生きとした人物

  「秋江待渡」には、南北宋の山水画に対する仇英の理解や再解釈が反映されています。また、人物や山石、構図など、様々な箇所に極めて高度な画技が見られ、意欲的な成熟期の代表作だと考えられます。2015年5月5日、文化部により国宝に指定されました。

仇英ってどんな人?

  仇英(1494頃-1552)、字は実父、号は十洲。16世紀前期の画家で、「明四大家」の一人に列せられます。仇英の絵画での成功は階級の垣根を乗り越えました。四大家の中では唯一人、文人階級に属さない、蘇州の名高い職業画家でした。
  仇英の生涯については不明な点も多く、散在する記録によれば、もともとは漆工で、後に絵画を学んで評価されるようになったそうです。現存する画跡や文献を見ると、仇英は人物や建築物、山水、花鳥など、様々な題材を描くことができたほか、白描や着色など、あらゆる技法に熟達した、「オールラウンダー」な画家だったようです。仇絵の絵は美しく精緻な中にも清雅な趣が感じられ、幅広く人気があります。そのため、仇英の画風を学ぶ職業画家は非常に多く、古画の贋作者がよく用いる画風でもあります。

どんな人たちが「秋江待渡」を収蔵していたの?

  中国の書画作品は「鈐印」をし、「題跋」を書き入れる習慣があるため、作者名や収蔵と流伝の痕跡を作品上に見出すことができます。
  「秋江待渡」には仇英の落款はありませんが、仇英の印章が三つ押してあります。この三つ以外、画上にある印は全て収蔵者が残した「鈐印」です。最早期の収蔵印は明代の著名な収蔵家項元汴(1525-1590)のもので、項元汴は三つの印を押しています。項元汴は仇英に古画の模写を依頼し、その絵を収蔵した記録があることから、「秋江待渡」も項元汴が仇英に注文した絵である可能性が高いと思われます。

  収蔵印から判断すれば、この絵は清代初頭に蔡琦(1667-1721)に収蔵された後、別の収蔵家安岐(1683-1744)の手に渡っています。安岐の死後、そのコレクションは散り散りになり、数多くの名作が清朝宮廷に持ち込まれ、乾隆帝のコレクションに加えられました。おそらく「秋江待渡」もその中の一つだったのでしょう。画上には、乾隆帝の印璽のほか、乾隆帝による題詩「瑟瑟呉江楓落時、長天秋水動漣漪、招招舟子横塘畔、体物風人有所思。」も書かれています。乾隆帝の詩集を調べたところ、この詩は乾隆13年(1748)の七夕前後に書かれたものだとわかりました。当時、乾隆帝は「秋江待渡」を取り出して賞玩したのでしょう。それ以降、この作品はずっと宮中に収蔵されていました。画上には嘉慶帝と宣統帝の収蔵印璽もあります。

展示作品リスト

年代 作者 作品名 形式 サイズ(cm)
仇英 「秋江待渡」 絹本 着色 155.4x133.4
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