展示作品解説
- 大阪市立美術館蔵
「五星二十八宿神形図」には、五星二十八宿に対応する人物や神怪の図像が描かれており、星神の名や性格、祭祀などの解説も篆書で書き添えてあるが、現存するのはその内の17段のみである。星神や人物、獣、人身獣頭の生物などが奇妙な姿形で表現されている。謹厳な画風から、作者の極めて高い画力や創造性が見て取れる。
この絵の作者と制作年代に関しては、南朝の張僧繇(479-?)とする説もあれば、唐代の梁令瓚、或いは梁令瓚の摹本を後人が臨模したとする説もあり、学会でも未だ定論がない。
- 重要古物
- 文化部により指定(2014年4月)
- 国立故宮博物院蔵
王維(701-761、或いは699-759)、字は摩詰。唐代の名高い詩人であり、書画の名家でもある。その山水画は独自の境地や、詩意の表現に重きを置いた。
この作品には、冬が訪れた川沿いの村の情景が描かれている。大地は真っ白な雪に覆われ、木の葉はすでに散り落ちている。空を横切り飛び去るサカツラガンが、静寂に満ちた大地に生気を添えている。画風から見ると、この巻の柔らかで優雅な画法は、北宋の趙令穣(11-12世紀の間)にやや近く、王維の作品ではない可能性がある。
- 大阪市立美術館蔵
釈迦牟尼仏降誕の故事を描いた本作は、「天王送子図」、或いは「釈迦降生図」とも称される。巻末には、釈迦の父親である浄飯王がシッダールタ太子を抱き、母親の摩耶夫人とともに神殿に参詣する中、神々が仏祖に礼拝する様子が描いてあり、父に抱かれた嬰児の尊さが表現されている。
呉道玄(?-792)、初名は道子、絵画史では画聖と尊称される。仏道や人物画を得意とし、壁画の制作に優れていた。本作には「呉家様」の筆意や、早期人物画の配置に見られる特徴が残されており、後人が呉道玄の名を借りて制作した摹本か、摹本を再度模写した作と考えられる。
- 大阪市立美術館蔵
2枚を貼り合せた絹本に荒涼とした冬景色が描かれている。ラバに跨った一人の老人と侍童が、古碑の前で足を止め、碑文を読んでいる。石碑の傍らに「王暁人物李成樹石」と書かれた款がうっすらと見える。李成(919-967)、原籍は長安(現在の陝西省西安市)、山水画をよくし、平遠の物寂しい風景を多く描いた。山石は巻雲皴、寒林は自身が創出した蟹爪法を用い、北宋山水画の発展に大きな影響を与えた。王暁は五代末から宋代初期の画家で、泗州(現在の山東省泗水県)の人。禽鳥画に優れ、人物画も得意とした。
- 国立故宮博物院蔵
郭熙(1023頃-1087以降)字は淳夫、河南省温県(現在の河南省焦作市温県)の人。北宋神宗熙寧年間(1068-1077)の画院芸学。山水画をよくし、画法は李成を学んだ。
この絵には平遠の寒林と松の木、枯木が描かれている。二人は碑石を眺めているところで、右側手前にいる四人は鞍を置いた馬の傍らで傘蓋を持ちながら控えており、人物の表情は生き生きとしている。曹操(155-220)と楊修(175-219)が曹娥碑に刻された事蹟を読んでいる場面だと思われる。作者の款印はない。画中の捲雲皴と蟹爪の技法は郭熙から伝わるものだが、筆墨や構図、画風など、いずれも明人の作風に近い。
- 大阪市立美術館蔵
殿閣や涼亭、回廊に囲まれた庭園を描いた鳥瞰図で、気勢雄大で壮麗な眺めとなっている。遠景には連山、近景には樹木が配され、神仙が現れるかのような雰囲気がある。郭忠恕(?-977)の名を借りて描かれた絵で、山水や樹石には元代の李、郭の風格が見て取れる。緻密な白描の線は見事な画技が見られ、界画は対称的に整っている。建築物の部材は簡略化されており、パターン化の傾向がある。構図と寸法、いずれも李容瑾(13-14世紀)の「漢苑図」に近い。山石と樹木の配置に僅かな変化があるのみで、同じ画稿を元にした作と考えられる。
- 国宝
- 文化部により指定(2013年6月)
- 国立故宮博物院蔵
郭忠恕(?-977)、字は恕先、河南洛陽(現在の河南省洛陽市)の人。山水画を得意とし、特に楼閣や台榭などの絵に優れていた。界画に等しい仕上がりで、細密だがありきたりな感はなく、比率も合致している。汴京の運河を通って穀物を運ぶ2艘の商船の船体や船倉、舵楼、帆柱など、船の構造も精確かつ丁寧に描いてあり、極めて写実的な画風となっている。この絵は裁断されており、作品全体が見られる同名作は米国のネルソン・アトキンス美術館に収蔵されている。前景に川岸が描かれているが、何恵鑑氏によれば、山石や樹木の描き方は金、南宋の風格に近い。
- 大阪市立美術館蔵
燕文貴(10世紀後半-11世紀前半)。山水画は巨嶂式の重量感ある高山を多く描き、細密な描写に清潤な趣がある。
巻首には川の中洲や青々と生い茂る雑木、まばらな家屋が描かれており、中景には遠山が長々と連なり、雲霧に覆われた水面が広がっている。巻末には高山が重なり、その中につづら折りの山道が見え、楼閣や東屋が彩りを添えており、丹念に描かれた様々な景物が巧みに配されている。手巻の本作は、北宋山水画特有の平遠、高遠、深遠という複雑な空間構成が見られ、極めて独創的である。細密な用筆に絶妙な配置、小さな絵の中に広大な世界が表現されており、観る者を魅了せずにはおかない。
- 重要古物
- 本院による暫定的分類
- 国立故宮博物院蔵
燕文貴(10世紀後半-11世紀前半)。山水画は巨嶂式の重量感ある高山を多く描き、細密な描写に清潤な風格がある。
山々と渓流、流れ落ちる滝、重なり連なる高山、楼閣が巧みに配されている。震えのある太い線で山の輪郭が描いてあり、雨点皴法に似た描き方で山石の質感や量感が細密に表現されている。用筆は滑らかで丸みがあり、燕文貴特有の力強く角張った用筆とは異なっている。左側の石壁に小さな字で「翰林待詔燕文貴筆」とあるが、線は細く弱々しい。12~13世紀間に生じた燕文貴の風格の傍流だと思われる。
- 大阪市立美術館蔵
この作品は胡舜臣が大参郝玄明の出使に合わせて制作したもので、図上に自題「宣和四年(1122)九月二日、玄明大参有使秦之命、作此紀別。胡舜臣。」があり、その下に「舜臣」という白文印が押してある。巻末には蔡京が書した詩が一首ある。元代夏文彦の『図絵宝鑑』によれば、胡舜臣は郭熙の弟子なので、画風にも関連性があるという。山河や人物を描いたこの絵は、用筆は簡潔だが隙間なく描き込まれており、独自の画境に達している。丹念に処理された着色や皴法、暈染も技術的に確かなものがあり、郭熙の画風を会得していると言え、北宋末期の山水画の様式を見ることができる。
- 大阪市立美術館蔵
秋が訪れた山河の風景が描かれており、川岸や巨大な岩の間に喬木が立ち並んでいる。木の葉の一部は赤く染まり、その間に蟹の爪のように枝が伸びている。川面に浮かぶ小さな漁船が雄大かつ壮麗な山河とは対照的で、釣り糸を垂れる文士がのどかな雰囲気をかもし出している。後退するかのように重なる岩がちの岸辺によって、空間に大きな広がりが生じている。山石の黒く力強い輪郭線や、薄墨を用いた山体の結構、うっすらと漂う雲霧、山頂の造形など、五代と北宋に活動した複数の画家の風格が入り混じった作品である。
- 国立故宮博物院蔵
華北地域では、五代、北宋時代に寒林を題材とした山水画が盛んに描かれた。特に李成(919-967)と、李成が創出した「寒林平遠」という画題が代表的である。
この絵には寒々とした原野や旅人、渡し舟などが描かれている。暈染の処理により、冬の寒気と雪景色の冷ややかさが際立っている。近景の縮小された樹林と高めの視点が、画面の焦点を、後方の物寂しい雰囲気漂う開けた平原と旅人の動きに移動させている。斜面と岩、樹木に用いた皴法と構図から、南宋以降に李、郭一派の影響を受けた作品だと考えられる。
- 重要古物
- 文化部により指定(2015年10月)
- 国立故宮博物院蔵
「獲見帖」とも言われるこの帖は、蘇軾(1037-1101)が元豊5年(1082)に董鉞(11世紀)のために書いたものと推測される。蔡卞(1048-1117)に濡れ衣を着せられて免職となった董鉞は、帰郷の道すがら、黄州に左遷された蘇軾をわざわざ訪ねたという。逆境に陥った苦しみが文字にも溢れ出ており、紙の選び方からも二人の真摯な思いが伝わってくる。牡丹と巻草の紋飾で埋め尽くされた中に、2羽の大きな鳳鳥の模様がある。非常に等級の高い砑花箋紙である。斜光線撮影により、千年近く前に失われた装飾紋様が明らかになった。
- 国宝
- 文化部により指定(2013年1月)
- 国立故宮博物院蔵
この尺牘は米芾(1052-1108)が1091年頃に友人の劉季孫(933-1092)宛てに書いたもので、書帖や文玩の売買について記されている。簡潔な短文だが、運筆や気持ちの転換が明らかで、行書を主とした中に草書も加えられ、筆画の繁簡と速度の変化がより豊かになっている。最後2行目の「芾頓首再拜」5文字は止めと転折が連続するリズミカルな表現となっており、大らかな人柄がうかがえる。
- 国宝
- 文化部により指定(2013年1月)
- 国立故宮博物院蔵
米芾(1052-1108)、湖北襄陽(現在の湖北省襄陽市)の人。鑑賞に優れ、徽宗年間に勅命により書画学士となる。この帖は草書九帖の五で、「草書帖」とも言われる。内容は草書についての論評で、晋人の書風を最高の基準としており、唐代草書の大家─張旭、懐素、高閑を遠回しに批判している。米芾の書論では晋を崇め唐を貶すような論調がしばしば見られる。唐人の狂草の筆法
ではなく、全幅が晋人の平淡かつ率直な感のある今草の風格で書いてあり、書風と文の内容が合致している。
- 国立故宮博物院蔵
米芾の『草書九帖』はかつて宋高宗(1107-1187)内府に収蔵されており、米芾の子息である米友仁(1074-1151)が鑑定し題跋を入れている。明嘉靖16年から39年(1537-1560)にかけて、文徴明(1470-1559)と息子の子文彭(1497-1573)、文嘉(1501-1583)が『停雲館法帖』を臨模している。九帖全てが第五巻「宋名人書」に刻されている。この帖を刻したのは鉄筆の名手章簡甫(1491-1572)である。内容は厳選されており、ほとんどの墨蹟が石に刻されている。明代の代表的な叢帖である。
- 大阪市立美術館蔵
清恭親王(1833-1898)府の旧蔵品。画上に名款はなく、拖尾の跋文に依る。墨で渓谷や枯れ林、早瀬と岸辺が描かれている。長い墨点で表現された、顔の白い黒猿と、墨でぼかして白い色を浮き上がらせた、腕の長い白猿が群れをなしている。岩によじ登ったり、木の枝にぶら下がったり、川の水をすくったりと、多様な姿で描かれている。しかし、川の描き方を見ると、制作年代はやや遅く、南宋時代の作と思われる。易元吉(11世紀後半に活動)、よく自然を訪ね歩き、生物をつぶさに観察して描いた絵で名声を得た。特に猿の絵を得意とし、後世に名を残した。
- 寒玉堂託管
溥儒(1896-1963)、清朝宗室の出身、恭親王奕訢(1833-1898)の孫。幼い頃から文学や書法、絵画に傾倒した。独学した絵画は清逸かつ脱俗的な風格がある。民国の画家の中で伝統の精髄を最も会得していると、当時の人々に讃えられた。
墨画による8匹の黒猿─白猿が藤の枝にぶら下がり、岩や喬木の間で楽しげに遊んでいる。やや掠れた硬筆で顔の白い黒毛の猿を筆を擦るようにして描き出している。別の白猿は薄墨で簡略化した短い線で形を表し、外側はぼかしてある。詩題には、旧蔵の易元吉を見て描いたと自ら述べているが、岩と樹木、猿のいずれにも独自の風格が見られる。
- 重要古物
- 文化部により指定(2012年10月)
- 国立故宮博物院蔵
重なる山々や川岸の斜面に生い茂る樹木が描かれており、周囲は薄墨でぼかされている。たなびく雲霧や川の流れで叙情的な詩意に満ちた山水の境地が表現されている。画上に宋徽宗帝趙佶(1082–1135)の花押と印記「御書」も確認できるが、徽宗がよく用いる印ではなく、偽印の可能性がある。実景の多くが画面の左半分に集中しており、堂々たる主峰の雄大な姿を描く、北宋の巨嶂山水画とは異なっている。
画風を見ると、南宋初期頃に制作された作品と思われ、細緻な筆法には李郭派の筆墨や淡墨を用いた文人的な趣も感じられる。南北宋の画風の変転を代表する作品であり、重要な芸術性も備わっている。
- 大阪市立美術館蔵
本作の景物や構図は宋徽宗「渓山秋色図」に近いが、画面が下方に集中し、他は余白となっている。雲のような形の山は李郭の風格に近いが、謹厳な用筆に細緻な皴染は、太さが激しく変化する李郭の線とは異なる。ある研究者は、李郭の伝統を継承した金代(1215-1234)の作品ではないかと推測している。
画面右上に痩金体で「晴麓横雲」と書いてあるが、書風が若干弱々しく、「御書之寶」も真偽が疑われることから、後人による模写と推測される。
- 大阪市立美術館蔵
米友仁(1074-115)、字は元暉、米芾(1052-1108)の長子。書画で家学を継承し、父とともに名を馳せた。米氏父子は水墨暈染を用いた、雲霧立ち込める江南の風景画を得意とし、後世に「米氏雲山」、「米家山水」と称された。
米友仁の伝世作品は極めて少なく、本作はその中でも特に優れた作品である。画幅は紙本淡墨、款は「元暉戯作」とある。詩塘の自題によれば、新昌から舟で臨安の七宝山へ向かう途中で目にした山水の風景を描いた作品だという。
- 大阪市立美術館蔵
龔開(1222-?)、淮陰(現在の江蘇省淮安市)の人。南宋滅亡後は隠居して出仕せず、詩文や書画などの芸術作品を手がけつつ故国を偲んだ。
骨と皮ばかりにやせ細った馬が白い背景の中に佇んでいる。背骨が突き出ており、骨盤と肋骨も浮き出ているが、実に立派な体格で、目にも輝きがあり、気高い不屈の精神が見て取れる。龔開による題詩「今日有誰憐駿骨、夕陽沙岸影如山」は、この馬のイメージに呼応しており、前朝滅亡に対する遺恨も感じられる。
- 大阪市立美術館蔵
鄭思肖(1241-1318、或いは1239-1316)は宋代末期から元代初頭にかけて活動した遺民詩画家で、花と葉が簡潔に描かれた本作は伝世の名蹟である。一般的に蘭の絵は細長い葉が重なり乱れる様子が好んで描かれる。しかし、鄭思肖は薄い墨で、数枚の短い蘭の葉をほぼ対称的に配置することにより、簡素だが力強く、古風で清らかな雰囲気をかもし出している。左側の落款「丙午(1306)正月十五日作此一卷」は、「正」と「十五」以外は手書きされており、その他は墨印である点がかなり珍しい。この種の「根のない蘭の花」を大量に制作したようである。
- 大阪市立美術館蔵
『名賢宝絵』冊計十二幅。この度の特別展で展示される五幅─「牧牛」、「湖畔幽居」、「瀑辺遊鹿」、「観瀑」、「古松楼閣」は全て団扇形の冊頁である。
「湖畔幽居」、「観瀑」、「古松楼閣」は南宋の馬遠(1189-1225に活動)、夏圭(1180-1230に活動)の画風の作品。全冊が清末の李佐賢『書画鑑影』に記載がある。初めは陳寿卿の所蔵品だったが、後に完顔景賢(1876-1926)の所蔵となった。大阪市立美術館に収蔵される前は、日本人の武居綾蔵(1871-1932)、阿部房次郎(1868-1937)が所蔵していた。
- 大阪市立美術館蔵
仏教の護法神とは、仏法と衆生を守護する者を指す。護法神信仰は諸天善神からなる一大体系として総括されており、天王は重要な天衆の一つとされる。護法が表すイメージはそれぞれ異なり、護法神が手に持つ武器や法器には、魔除けや仏道の守護、信徒を護る機能があり、智慧や富の象徴でもあるほか、方便法門などを示す吉祥の寓意でもある。
画中の人物はそれぞれが様々な法物を手にしている。極めて精緻な描写だが、人物の造形は仏教の石窟や仏塔、寺院の壁画に残された護法天王のイメージとは異なっている。
- 重要古物
- 文化部により指定(2012年3月)
- 国立故宮博物院蔵
盧鴻(7-8世紀)、博学で書画をよくした。唐玄宗に幾度も招聘されたが出仕を拒み続けた。その後、隠居を願う盧鴻の希望は聞き入れられ、玄宗から草堂も賜り、隠居所の風景十箇所を描いたという。本作は水墨で十景を描いたもので、絵の間に十景を詠んだ詩文が添えられている。唐代の画作ではないが、研究者は五代(10世紀)の作品とみなしている。おそらく唐代盧鴻の原本に最も近い摹本であろう。早期における文人隠居山水図の重要な祖型であり、中国歴代隠居山水図の表現に大きな影響を与えた。
- 大阪市立美術館蔵
本作は13世紀の南宋か金人が描いた絵と考えられている。本院が所蔵する伝盧鴻「草堂十志図」の複雑に描き込まれた絵図と比較すると、本作には水を含ませた筆で雲気に覆われた風景が描いてあり、物象も少なく、空間が遠方まで伸ばされている。山石の輪郭線は意図的な提頓により太さに変化を与え、蟹爪のような木の枝からも、李郭派画風の伝承が見て取れる。この作品は草堂十景を、自信に満ちた筆致で改めて解釈しており、本院所蔵品と見比べると、より一層興味深く、味わいが増す。
- 大阪市立美術館蔵
広大な川面を背景に、手前には長々と続くなだらかな斜面が描かれており、牛に乗った子供が放牧をしている。群れをなした牛が前後に散らばり、頭を上げて前に進んでいる牛もいれば、何かを警戒している牛もいる。牽かれるのを嫌がり踏ん張る牛、水浴びを楽しむ牛など、様々な姿の牛が生き生きと描かれている。川面は墨を用いた渲染で表現されており、雪に覆われた岸辺が際立って見える。それに加えて、蟹爪による寒林と高く聳える山石が細緻な筆遣いで描かれており、牧童と牛の群れは寒さに怯むことなく、活発に動き回っている。
- 大阪市立美術館蔵
銭選(1239-1302)、字は舜挙、浙江呉興(現在の浙江省湖州市)の人。詩文や書画に優れ、「呉興八俊」の筆頭とされた。
この作品は「品茶」と名付けられているが、唐代以降の「闘茶」を描いた絵画の伝統と関連がある。画中に六人の男性がおり、左側の男性らは茶壺を持ち、湯を注いで茶を入れたり、籠を掲げて相手を見つめている。右側の三人はちょうど茶を飲んでいるところで、茶が運ばれてくるのを待っている者もいる。しかし、人物の表情はぎこちなく、色遣いも単調で、画風も銭選の精細で文雅な趣とは異なっていることから、後人が銭選の名を借りて描いたものと思われる。
- 重要古物
- 本院による暫定的分類
- 国立故宮博物院蔵
姚文瀚(1736-1795に活動)、号は濯亭。乾隆時代の内廷に仕え、仏教と道教の人物画を得意とした。『秘殿珠林』はその道釈画を評して、厳宏滋、丁観鵬に比肩する画家だとしている。
この絵には、街角で茶を売る様子が描かれている。十人の老若男女が集まって、炉の火をあおいだり、茶を煮たりしている。茶壺を手に茶を売る者もいれば、茶を飲み干している者もいて、にぎやかな場面が描写されている。茶担や道具類も細部まで丁寧に描かれている。全体の着色は明朗で美しく、用筆も精細で力強い。人物の顔に陰影がつけてあり、立体感がある。
- 大阪市立美術館蔵
王淵(14世紀)、早年は趙孟頫(1254-1322)の指導を受けた。特に花鳥画に優れていた。
前景にはシャコがいて、その後ろに大きな岩や竹、アシ、セキチク、タンポポなどの雑草が描かれている。スズメたちは飛んだり、竹に留まったり、餌を啄ばんだりしている。左側の岩に「王淵若水摹黄筌竹雀図」という題が書いてある。構図の様式は本院所蔵の「黄居寀山鷓棗雀図」に近く、唐代の樹下花鳥画の伝統を継承している。全体に水墨の濃淡や対比も丁寧に表現されており、古拙な造形も復古の趣が強い。
- 重要古物
- 本院による暫定的分類
- 国立故宮博物院蔵
王淵(14世紀)、早年は趙孟頫(1254-1322)の指導を受けた。特に花鳥画に優れていた。
空中から急降下したタカが、慌てて逃げるガビチョウを追っている。タカの曲がった嘴は鋭く、目は凶暴な光を放ち、屈強な脚の爪をぎゅっと閉じている。口を大きく開けたガビチョウは声も出せず、驚き怯えている。全体に整った筆致で、タカとガビチョウが写実的に描かれている。風を受けて揺れる竹と枯れ葦が、緊迫した雰囲気によく合っている。動感豊かな情景に温かく趣ある着色が施されており、宋画の遺風が色濃く感じられる。
- 大阪市立美術館蔵
方従義(1302-1393に活動)、字は無隅、号は方壺、江西龍虎山上清宮の道士。若い頃から金蓬頭に師事して道教を学んだ。後に大都に出遊し、道教の名山も巡歴した。
本作は前・中・後・遠─4段に分かれた構図となっている。前景には山林に身を託す高士が描かれている。中景には険しく切り立った山の形が細筆で描かれており、後方の遠山は墨でぼかされ、幽遠な眺めとなっている。右側の瀑布は絶壁沿いに曲がりくねりながら流れ落ち、天を突くように聳え立つ太白山の雄姿と壮大な風景が表現されている。
- 重要古物
- 文化部により指定(2008年12月)
- 国立故宮博物院蔵
王紱(1362-1416)、字は孟端、号は友石生、九龍山人など。墨竹画と山水画を得意とした。元末明初の重要な画家。
1404年の作品。山林の静かな住まい、涼亭での雅集、谷間を流れる川に浮かぶ舟などのモチーフが描かれており、桃源世界への憧れが表現されている。構図は複雑だが、主要なものと付随的なものが分けてあるので、閉塞感はない。全ての物象が輪郭を取ってからぼかしてあり、渇筆から濃墨まで、入り組んではいるが乱れはない。その中に王蒙(1308-1385)、呉鎮(1280-1354)の風格が融合し、清らかで心地よく、素朴な味わいがある。まごうことなき傑作である。
- 大阪市立美術館蔵
文人画家3名による合装作品。一幅目は永楽年間の王紱(1362-1416)の「為密斎写山水図」である。題跋には、王紱(字は孟端)が永楽甲申(1404)5月9日に友人の密斎のために江岸送別図を描き、顧寅が詩題を書いたと記されている。
二幅目は沈周(1427-1509、字は啓南)の「疎林閑居図」。三幅目は陳淳(1483-1544、字は道復)の「前赤壁賦図」で、陳淳の題識によれば、旧作「前赤壁賦」の所有者に作品の補完を依頼されたのが、作画の所以だという。
- 大阪市立美術館蔵
唐寅(1470-1523)、字は伯虎、号は六如居士。文徴明、祝允明、徐禎卿らと交遊し、「呉中四才子」と称された。
水墨で描かれた梅の枝が真っ直ぐ上に伸びており、勢いを感じさせる。用筆には強靭さがあり、墨色は豊かな変化に富んでいる。古い枝と若い枝が交錯しているが、空間の奥行きや枝の重なり具合がよくわかる。白描で丸く描いた花弁は生気に満ちている。画中に大きく残された余白により、雪で覆われた広大な地に、梅の花が傲然と屹立しているように見え、題と絵、詩文が互いに呼応している。
- 国立故宮博物院蔵
唐寅(1470-1523)、字は伯虎、号は六如居士、江蘇呉県(現在の江蘇省呉中区)の人。
季節は春、花をつけた杏の枝が描かれている。左から右へと伸びる枝は、まず濃墨で枝を描いてから皴擦を用いている。枝にびっしりとついた花は濃淡異なる墨で描かれている。花弁に蕊が加えてあり、兼工帶写によって、花のイメージが瑞々しく表現されている。構図には空間の奥行きが感じられ、疎密が相交じる中、簡潔に描かれており、紙面に残された余白に情趣が満ちている。梅に託して心情を表した題画詩は、軟らかく滑らかな行書で書かれている。詩書画が互いに呼応し、明代文人画の特徴が表現されている。
- 大阪市立美術館蔵
文嘉(1501-1583)、江蘇蘇州(現在の江蘇省蘇州市)の人。文徴明の次男。詩文に精通し、書画にも優れ、父の画技を継承した。
1569年の作品。唐代の白居易(772-846)の「琵琶行」を題材に、左遷されて九江にやって来た詩人が、ある夜、岸辺の舟上で、かつて長安で名を知られた女性が奏でる琵琶に耳を傾け、落ちぶれた悲惨な身の上を嘆く様子が描かれている。上部に行草書で「琵琶行」が抄録してある。運筆は素早く、文字は斜めに傾いている。山水を描く筆致には脱俗的で秀潤な趣があり、広大な空間の奥行きを感じさせる。呉派文人画ならではの優美な風姿が存分に表現されている。
- 大阪市立美術館蔵
趙左(1573-1644)の風格は蘇州と松江の画学を継承している。画中に見える茅葺の小さな家屋には、向かい合って座る僧侶と文士がいて、その様子は右上に書かれた唐人の詩句「因過竹院逢僧話、又得浮生半日閒」と一致する。この画題は非常に人気が高く、趙左は竹林や巨石、水面、画面の大半を覆う雲霧を生かし、竹院を独立した存在にしている。更に興味深いのは、木の幹と覆いを用いて小さな方形の空間を作り、その枠内に文士を配置している点で、残り少ない穏やかな時間を楽しむよう促しているように見える。
- 大阪市立美術館蔵
楊文驄(1597-1646)、字は龍友、貴州貴陽(現在の貴州省貴陽市)の人。江南の文士らと親しく交遊した。「復社」の早期成員の一人。崇禎7年(1634)に出仕し、福王の時代に兵備副使に任ぜられた。
1631年の作品。構図は一河両岸。前景の樹木はそれぞれ異なる筆法で描かれており、墨色には透明感と潤いがある。丸みのある山石の捻れたような姿は、披麻皴に海藻のような太い曲線を加えてあり、縦横異なる苔点が動感を高めている。墨色と綾本の組み合わせが、秋の明るさや爽やかな空気を感じさせる。
- 大阪市立美術館蔵
王鐸(1592-1652)、字は覚斯、河南孟津(現在の河南省洛陽市孟津区)の人。明代天啓2年(1622)に進士となった。官は清代に弘文院大学士に至り、礼部尚書を授かった。諡は文安。
この作品は三段に分かれており、絵画の前後に書法が配置されている。書法の始まりは「臨池学古」─漢代から唐代に渡る名家の各書体が含まれ、運筆には自ずと胸の内が表れており、変化に富んでいる。中段の雲山は水墨でぼかされ、披麻の長短交錯する皴法を多く用い、山石の重なりや形状、質感が表現されており、古風な趣に満ちている。末段は古人の法帖の臨模が掉尾を飾る。
- 大阪市立美術館蔵
惲寿平(1633-1690)、初名は格、字は寿平、字で名を知られる。江蘇武進(現在の江蘇省常州市武進区)の人。没骨法による花卉画を得意とし、輪郭線にこだわらず、墨彩を直接渲染に用いた。「常州画派」の開祖。
この冊には計十二開が収録されており、牡丹、海棠(カイドウ)、碧桃(ヘキトウ)、木蓮(モクレン)、藤、蓮(ハス)、萱草(カンゾウ)、木樨(モクセイ)、葉鶏頭 (ハゲイトウ)、菊、薔薇、蝋梅が描かれている。着色は丁寧で、色遣いにもこだわりが見られ、脱俗的だが艶やかで美しい。軽快な筆致の書法には洗練された趣があり、絵と文字が互いに映えている。
- 大阪市立美術館蔵
張瑞図(1570-1644)、明代晩期に活動した個性派の画家。奇抜で奔放な書法のほか、山水画にも優れ、古風だが力強い絵を描いた。伝世作は非常に少ない。
聳え立つ高山、その周囲を雲霧が漂い、山頂には建物がある。山の向こうに見える川には帆を張った舟が浮かび、遙か遠くにも山が連なっている。構図は流行に迎合したものではなく、新しさが感じられる。「白毫菴瑞図」と署名していることから、引退後の崇禎時期(1611-1644)の作品だとわかる。この時期の書法は技巧的で、深い落ち着きがある。創作手法だけでなく、作者の心境にも、明らかな変化が見て取れる。
- 大阪市立美術館蔵
王建章(17世紀)、明代末期から清代初頭にかけて活動した画家。福建泉州(現在の福建省泉州市)の人。張瑞図と交友があった。日本を訪れたことがあり、多くの画作が日本に伝わった。
幾層も重なる山体、その間を流れる渓流とつづら折りの小径、林の中に何軒かの家屋が見え、あたりは雲霧に覆われている。画中の描写は詩句「横雲嶺外千里樹、流水声中三五家。」そのものである。山石は披麻皴で描かれており、重なる樹木と雲霧の渲染には奥行きが感じられる。雄健な筆力により、豊かに生い茂る木々や重厚な味わいが表現されている。
- 大阪市立美術館蔵
倪元璐(1593-1644)、浙江上虞(現在の浙江省紹興市上虞区)の人。明代晩期の個性派の書家。李自成(1606-1645)が入京すると、自ら縊死した。
生涯を通して簡筆山水や松竹、文石を好んで描いたが、水墨による文石画が特に多く、意味深長な識語が添えられたものが多い。本作は濃淡乾湿の違いを生かして石の輪郭線を描いてあり、用筆は起伏や軽重の変化に富み、影になっている部分の渲染と、目を引く苔点により、生き生きと洗練された雰囲気となっている。個性的な書法に奇妙な形の文石、いずれにも画家の磊落な性格が反映されている。
- 大阪市立美術館蔵
朱耷(1626頃-1705頃)、号は八大山人、清代初頭の画壇で名高い「清初四僧」の一人に数えられる。
本作は浅絳山水図で、前景には低い丘と斜面に立つ巨木が描かれている。緊密に構築された山林は複雑に表現されており、生気溢れる中に臨場感がある。中景の山体は遠方に伸びているが、対面の雲と山々には達していない。断絶された空間が、観る者に深いやるせなさを感じさせる。山中に開けた箇所があり、それが画面の要となっているが、そこに至る道はない。一つだけある亭にも誰一人おらず、それが物寂しさと静けさを更に高めている。
- 大阪市立美術館蔵
傅山(1607-1684)、別名は観化翁など。明代末期の書家、医学家。
断崖にぽつんと建つ東屋が描かれており、近景には樹木が生い茂り、遠方には舟が見える。大きく余白を残すことにより、躍動的で自在な筆墨を突出させているため、跋語の下にある山の谷間を石柱と誤解されることも多く、水面も山体に間違えられやすい。このような「図地反転」は、直覚的に画面を読み取ることができないために不安になる。また、明代晩期の混乱や、「生」と「奇」を求めた美意識を連想させる。
- 大阪市立美術館蔵
高鳳翰(1683-1749)、字は西園、号は南村。書画と篆刻を得意とした。清代中葉に活動した揚州派の著名な書画家。
本冊は計十開あり、花卉や山水、樹石などが描かれている。「指墨」と画家自身が記している。1734年の作品。各開全ての絵が、筆の代わりに指と掌を使って線を引いて描いたもの。その線は舞い飛ぶように滑らかで、奔放だが熟達している。着色は淡く、薄くぼかすことにより、主体が巧みに強調され、生気溢れる情景となっている。全作に清新かつ淡雅な趣があり、指画(指頭画)の先達である高其佩(1660-1734)の深い落ち着きある雄健な風格にも比肩する。
- 大阪市立美術館蔵
華喦(1682-1756)、福建上杭(現在の福建省竜岩市上杭県)の人。字は秋岳、号は新羅山人、離垢居士など。人物、山水、花鳥、草虫、いずれにも優れていた。清代中葉に活動した揚州画派の著名な画家。
空高くかかる明月、豆粒のような灯り、言葉を交わす主人と家僕、翻る木の葉─欧陽修(1007-1072)「秋声賦」の一場面そのものである。「私は童子に言った。『これは何の音だろう?外に行って見てきておくれ。』童子は答えた。『月は明るく、星はきらめき、空には天の川が見えます。この辺りで人の声はしません。あの音は林の中から聞こえてくるんです。』」題識によれば、1755年に制作された作品である。
- 大阪市立美術館蔵
蔡嘉(18世紀中期)、字は松原、号は雪堂、旅亭など。江蘇丹陽(現在の江蘇省鎮江市丹陽)の人。揚州に寓居したが、後に京江画派とされた。
この絵は1756年に制作された。自題に倪瓚(1301-1374)の筆法をまねて描いたとある。岸辺の斜面と川を近景とし、画幅の中ほどに位置する右側の岸辺に枯れ木が立っている。その背景に広がる空を、列をなして飛び去る寒鴉が空間の奥行きを示している。やや掠れた点のような描き方で、多数の景物を重ねつつ質感を表現し、清淡で寒々とした雰囲気をかもし出している。
- 国立故宮博物院蔵
王雲(1652-1735間は健在)、字は漢藻、江蘇高郵(現在の江蘇省揚州市高郵)の人。人物や楼閣の描き方は仇英(1494頃-1552)に近い。康熙年間(1661-1722)に内廷に仕え、「康熙南巡図」の制作にも参加し、江南や淮南地区で名を馳せた。清代初期の著名な揚州画家である。
山間を流れるせせらぎと寒林、靄の中に夕鴉が描かれている。近景の斜面を描く皺法は細かいが、背景の山崖は大きく筆を走らせてぼかされている。「寒林」という題材の多くは北宋の画家李成の画風に関連があるため、この作品も「倣李営丘筆」と題されている。渦巻状に群れをなして巣に帰る鴉が夕焼け空に映え、強烈な視覚効果を生み出している。
羅孫萍踪氏寄贈。
- 大阪市立美術館蔵
銭杜(1763-1844)は19世紀に独自の画風を確立し、文派の風格をもって知られた画家である。精緻かつ秀麗な作風で装飾性が高い。
本作は銭杜自身による題画詩で、友人のために描いた会心の作である。画題は文派の「秋園話月」類の抒情的作品に遡ることができる。庭園の門は開け放たれ、主人が門の外まで客人の見送りに出ている。名残りを惜しむ二人は別れ難い様子に見える。靄が立ち込める中、竹林や花木が見え隠れし、秋夜の宴のしみじみとした情趣が伝わってくる。
- 大阪市立美術館蔵
戴進(1388-1462)、銭塘(現在の浙江省杭州市)の人。字は文進、号は静庵、または玉泉山人。推挙されて宮廷画師となった。画風は南宋の馬夏と元朝の李郭画派を融合させたもので、明代浙派山水の風格を確立した。
本作の款は「松岩蕭寺。銭塘戴文進写於金台官舍」とある。山林の中に寺院が垣間見え、旅人がその間を歩んでいる。縦横に走る奔放な筆墨は力強く潤いもあるが、戴進の佳作に比べると秀潤の気に欠ける。戴進の画風の影響下で描かれた作品と思われる。
- 国宝
- 故宮暫行分級
- 国立故宮博物院蔵
呉偉(1459-1508)、字は士英、または次翁、号は小仙、江夏(現在の湖北省武昌区)の人。成化年間に仁智殿の待詔となり、正徳年間に「画状元」の印を賜った。南宋院体と馬夏の画法を継承し、簡素で奔放な画風が特徴的である。
厳しい冬の寒さの中、山々は純白の雪に覆われている。幾本もの枯れ木が密生しており、空と川面は薄い墨でぼかされている。遠近の山石は斧劈、飛白、皴擦を合わせて用いてあり、線は力強く、墨の用い方も巧みで洗練されている。杖をついた高士と琴を背負った童子が雪道を進んでおり、荒涼とした雪景色を生気に満ちたものにしている。
- 大阪市立美術館蔵
邵弥(1592/3-1642)、字は僧弥、号は瓜疇、灌園叟、江蘇呉県(現在の江蘇省蘇州市)の人。倪瓚(1301-1374)の風格での作画を得意とした。「画中九友」の一人。
1640年の作品。山水長巻に様々な作家の風格が凝縮されている。山体の明暗の対比を丹念に表現しており、川岸の遠近の変化と視点を生かして、各段落を繋いでいる。巻首の清秀かつ素朴な眺めから始まり、中段でより豊かで清々しい風景が広がった後、雲霧が消え去り、最後は乾筆で描かれた川岸と広大な水面で終わる。松江地方の画風との関わりが強く反映されている。
- 大阪市立美術館蔵
石涛(1642-1708)、本名は朱若極、明朝皇室の後代。独特の画風は中国絵画史において表現主義の先駆者とみなされている。
本冊は計十二開あり、洗練された筆致で大自然の秩序と神韻を捉えており、簡潔な筆致で素朴に表現された作品。石涛は多数の詩意図冊を手がけたが、詩画は「鏡にその姿が映る如く、互いに触れ合うよう」であるべきとし、自分なりに詩意を解釈していた。蘇軾の詩を題材に描いた本冊は、清代初頭に宋詩が詩壇の主流へと返り咲いたことが反映されている。
- 大阪市立美術館蔵
蒋廷錫(1669-1732)、康熙38年(1699)に郷試に及第し、南書房行走に推薦され、皇帝の命により作画をした。康熙42年(1703)に進士となり、官は文華殿大学士に至った。花卉作品は清代初頭の名家惲寿平(1633-1690)の没骨画風を継承している。
この作品は絹本着色画で、川岸の岩陰に咲く藤の花と山雀(ヤマガラ)が描かれている。款署は「臣蒋廷錫恭画」。上部に康熙帝(1654-1722)により、唐代岑参の詩「石上生孤藤、弱蔓依石長。不逢高枝引、未得凌空上。何処堪託身、為君長万丈。」が書されている。
- 大阪市立美術館蔵
高其佩(1660-1734)、遼寧鉄嶺(現在の遼寧省鉄嶺市)の人。長白山人とも。指頭画家として名高い。
「九如」は『詩経』の「如山、如阜、如岡、如陵、如川之方至、如月之恒、如日之升、如南山之寿、如松柏之茂。」からの引用で、福と長寿への願いを込めた吉語である。画中に佇む二人は手を携えて、太陽と月が同時に輝く奇景を眺めており、それが絵を観る者の焦点となっている。莽鵠立(1672-1736)は題跋で、高其佩の指頭画はこれまで誰一人なし得なかったものと、高く評価している。全体に豪気奔放で、翰墨の潤い満ちる作品となっている。
- 国立故宮博物院蔵
高其佩(1660-1734)、号は且園、遼寧鉄嶺(現在の遼寧省鉄嶺市)の人。指画(指頭画)を得意とし、「揚州八怪」の李鱓(1686-1756)、高鳳翰(1683-1749)などに影響を与えた。
この作品には、風の吹きすさぶ山中に傾いて立つ2株の松の木や、風を受けて翻る竹の葉が描かれている。景色のよい場所を尋ねて来た人物は手を背中で組み、腰を曲げている。目元には笑みが浮かんでいる。その後ろにはロバを牽く侍童がいる。ロバは手綱を嫌がり抗っており、その姿が楽しそうな主人と対比をなしている。全体に濃墨と飛白が交錯し、線には勢いがあり、気の向くまま、随意に指や爪を使って描いたのがわかる。