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治国政績

嘉慶帝の時代は清代が興隆から衰退へと転換する歴史的に重要な時期でした。官吏の腐敗、各地で起こる暴動、海賊の横行、河道の決壊など、どれも嘉慶帝が在位期間に直面した問題でした。嘉慶帝は汚職官吏を厳罰に処し、掃討と投降勧告により民間の暴動を平定し、治水については経費投入と整備による実質的な効果を重視するなど各種課題に積極的に取り組みました。本コーナーでは、文献を通して嘉慶帝の在位期間における治国の実績を振り返ります。

明亮攻克平隴図

明亮攻克平隴図

  1. 「平定苗疆図」
  2. 銅版画
  3. 清 嘉慶年間
苗族(ミャオ族)は代々貴州、湖南、四川など南西部に居住する少数民族である。乾隆帝六十年(1795)、同三省の辺境で起きた苗族の反乱が急拡大し、朝廷を驚愕させた。乾隆帝は直ちに雲貴総督の福康安(1753-1796)を鎮圧に向かわせ、四川総督の和琳(?-1796)も兵を投入した。双方は対峙したまま膠着状態が続いたが、嘉慶元年(1796)にようやく反乱を平定した。朝廷はその戦功を称えるため、先例に倣い「平定苗疆図」の銅版画十六幅を制作。時は既に嘉慶年間に入っていたが、各図には乾隆帝の御題詩が添えられた。
和琳收復乾州図

和琳收復乾州図

  1. 「平定苗疆図」
  2. 銅版画
  3. 清 嘉慶年間
苗族(ミャオ族)は代々貴州、湖南、四川など南西部に居住する少数民族である。乾隆帝六十年(1795)、同三省の辺境で起きた苗族の反乱が急拡大し、朝廷を驚愕させた。乾隆帝は直ちに雲貴総督の福康安(1753-1796)を鎮圧に向かわせ、四川総督の和琳(?-1796)も兵を投入した。双方は対峙したまま膠着状態が続いたが、嘉慶元年(1796)にようやく反乱を平定した。朝廷はその戦功を称えるため、先例に倣い「平定苗疆図」の銅版画十六幅を制作。時は既に嘉慶年間に入っていたが、各図には乾隆帝の御題詩が添えられた。
「欽定辛酉工賑紀事」

「欽定辛酉工賑紀事」

  1. 清 慶桂等 奉勅編
  2. 清 嘉慶七年 武英殿刊本
「欽定辛酉工賑紀事」は、嘉慶六年(1801)に北方直属地区の永定河で発生した空前の大規模水害について記録したものである。嘉慶六年は辛酉に当たるため、朝廷はこの水害を「辛酉大水」とも呼んだ。記録によると、当時の都は連日の大雨に見舞われ、宮廷の城壁が浸水で倒れたばかりか、永定河の氾濫で堤防が決壊し、直属の七十余りの州県が被災したとある。嘉慶帝は被災民の苦しみを案じ、直ちに救済を命じると共に、河道担当官に決壊箇所を塞ぐよう命じ、責任者を厳罰に処した。嘉慶帝はこの教訓を忘れてはなるまいと、治水と被災者救済の過程を書にまとめるよう命じた。この中で、嘉慶帝はたびたび同水害の発生は個人の過失によるものだと指摘しており、彼の民を愛する治国の理念がうかがえる。
「欽定剿平三省邪匪方略」

「欽定剿平三省邪匪方略」

  1. 清 慶桂等 奉勅編
  2. 清 嘉慶十五年 武英殿刊本
「欽定剿平三省邪匪方略」は、白蓮教徒の乱の平定を詳しく記録した貴重な公式の史書。清朝は大規模な軍事活動で成功を収めると、よくその経緯を記して書籍に残していた。嘉慶帝は同方略の御製序の中で、白蓮教の動乱平定に将士は苦難をなめ尽くし、七年という長い時間をかけてようやく解決することができたと述べている。また、同反乱の真の起因は官吏による民の指導がなっていなかったことにあり、結果的に愚民が邪教に惑わされることになったとも反省している。このため、動乱を平定後、嘉慶帝は地方官吏のあり方を厳しく見直した。しかし、この大規模な動乱を鎮圧するため、清朝は莫大な兵力と財力を投入し、国力が著しく損なわれることになった。
李長庚提督の広東沖での殉死を奏した奏摺

李長庚提督の広東沖での殉死を奏した奏摺

  1. 閩浙総督阿林保、福建巡撫張師誠
  2. 嘉慶十三年正月七日
嘉慶年間、海賊の蔡牽(1761-1809)が浙江、福建、広東の沿海で跋扈していた。嘉慶十二年(1807)十二月二十四日、浙江提督の李長庚らが部隊を率いて蔡牽を追撃し、翌二十五日未明に黒水まで追い詰めた。このとき、蔡牽の船は損傷し、一味にも死傷者が多数出ていた。同日の未の刻、李長庚が再攻撃を仕掛けようとしたそのとき、李長庚は蔡牽の船から放たれた砲撃に当たり死亡した。李長庚の死は朝廷を震撼させ、嘉慶帝は朱筆で「可惜之至、即有恩旨」(痛惜の至り、恩旨を賜る)、「可惜」(誠に惜しい)、「朕與軍機大臣亦同切齒」(朕も軍機大臣も憤っている)などと朱筆を入れ、蔡牽の「蔡」の字の横に「×」を書いて憎しみを示した。
「台湾府噶瑪蘭庁志」

「台湾府噶瑪蘭庁志」

  1. 清 陳淑均 総纂
  2. 咸豐二年刊本
台湾北東部に位置する宜蘭は、旧称を「蛤仔難(蘭、爛)」などと書かれていたが、これは先住民であるカバランの言葉の音訳である。同地は嘉慶十七年(1812)に庁が設けられ、民番通判が置かれた。咸豊二年(1852)に刊行された「台湾府噶瑪蘭庁志」は宜蘭地区の初の公式地方誌であり、噶瑪蘭庁志が設置された理由や先住民と漢民族の関係、風土や生産物などが詳細に記載されている。
象嵌紫檀木蓋付箱に収められた「御筆節録洪範」冊と干支の白玉彫り

象嵌紫檀木蓋付箱に収められた「御筆節録洪範」冊と干支の白玉彫り

  1. 清 嘉慶年間
玉を象嵌した紫檀木の蓋付箱。内部中央に龍が彫られている。箱には嘉慶帝御筆「御筆節録洪範」冊が収められ、末尾に朱珪(1731-1806)の跋がある。朱珪は嘉慶帝が皇子だった頃の先生であり、嘉慶帝から厚い信頼を受けていた。この冊は嘉慶四年(1799)、嘉慶帝が親政を開始した年に書かれたもので、「尚書・洪範」の「庶徴」を抄録し、天下を治める君主は天を敬い時に従うべき観念を伝えている。これに白玉で彫った干支を周りにあしらい、天地間の循環が絶えずめぐっていることを強調。現存する嘉慶年間の「活計档」には、玉器を象嵌した紫檀木箱の記録がたびたび登場しているが、この嘉慶年間初の百什件(皇帝の愛玩品を収める箱)は、玉彫の干支はつくりが素朴で、木箱の彫刻も精緻で美しい。さらに装飾に込められた深遠な含意は、嘉慶帝が親政を始めた当初の心境を映している。