この作品に落款はないが、前隔水の表装に「宋劉寀群魚戯荇図」とある。劉寀(11世紀頃に活動)、字は宏道または道源、北宋時代の画魚の名家である。『宣名画譜』には、「劉寀の描く魚は動きが自然で、水中をのびのびと泳ぎ回っている。それは荘子の言う『江湖を相忘れる』という何物にも束縛されることのない自由の境地に達している。」とある。後に画魚と水の表現では劉寀が至高とされるようになった。
底が見えないほどきらきらと輝くさざ波、墨で薄く描かれた水草と澄んだ水。その間を縫うようにして悠々と魚が泳いでいる。浅瀬に浮かぶ水草とその下を魚ぐ魚によって奥行きが表現されている。画風は明代のものだが、「吹く風や水の流れ、水草、魚の鱗や尾びれまで全てが生き生きと描かれる。」と伝わる劉寀の精神に達している。
郎世寧(ジュゼッペ・カスティリオーネ/1688-1766)、イタリア人。19歳でカトリック教会のイエズス会士となる。27歳で布教のために中国へ渡り、その後、内廷に仕えた。人物画や花鳥画を得意とし、特に馬の絵に優れていた。
この作品には池の魚が描かれている。構図は中国の様式だが、陰影が強調され、立体的かつ写実的な西洋画法が用いられており、魚の尾びれの立体感が見事に表現されているほか、艶やかな鱗の質感も白粉で表現されている。画面上部に草葉の模様があるのは、枠に入れて宮殿の壁に掛けられていた絵を軸に表装し直したためかもしれない。
宣和2年(1120)に編纂された『宣和画譜』では、「龍魚」が一つのジャンルとして扱われている。
水面に浮かぶ水生植物や水底の水草によって、水中の眺めであることがわかる。上から順に大中小3尾の魚が並んでいる。まず薄墨で輪郭線を取り、次に鱗や尾びれをグラデーションで表現している。上にいる一番大きな鱖魚(ケツギョ)の特徴的な模様は墨で描かれているが、上半分は墨をつけた目の粗い布を押して模様が表現され、鱖魚の細かな鱗がより生き生きとして見える。水草も丁寧に描かれており、味わい深く装飾性も高い。
華嵒(1682-1756)、福建上杭(現在の福建省上杭県)の人。字は秋岳、号は新羅山人。杭州に寓居していたが、しばしば維揚(現在の江蘇省揚州市内)を訪れた。人物画、山水画、花鳥画、草虫画、全てに秀でていた。揚州八怪と同時代の画家だが、画風は穏やかで荒々しさは一切なく、揚州の画家たちの中でも際立つ存在で、独自の画境を拓いた。
『華嵒写生冊』所収の「群魚戯藻」には、清流の水草の間を悠々自在に泳ぐ魚群が描かれている。一番大きな鮎魚(ナマズの仲間)は、薄墨で丸く輪郭を取ってから顔料と墨で着色されており、水彩画のようにみずみずしい作品となっている。細く力強い線で描かれた魚のヒゲは生きて動いているかのようで、卓越した画力が見て取れる。
蘭千山館寄託。
丁観鵬(18世紀に活動)、順天(現在の北京市)の人。雍正4年(1726)から宮廷に仕え、乾隆時代に「一等書画人」となった。明代末期の丁雲鵬の筆意を学んだほか、郎世寧(ジュゼッペ・カスティリオーネ/1688-1766)の西洋画法も学んだ。美しく精緻な人物画で知られる。
「太平春市図」は乾隆7年(1742)の作品で、豊かで平和な時代の正月に賑わう市の様子が描かれている。明代晩期の劉侗『亭京景物略』には「正月元旦……赤い金魚を入れたガラス瓶が売られている。瓶の中で泳ぎまわる金魚は大きくなったり、小さくなったりして見える。」と記されている。この作品にも網袋付きのガラス鉢を並べた金魚売りの姿が見える。正しく北京の新春市の風景である。