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展示作品解説

 

国宝展をご覧になる前に

蘇軾「致知県朝奉尺牘」は、北宋の文豪蘇軾の現存する墨跡の中では最晩年の作品です。「絶筆」と言われる作品で、本院が所蔵する「国宝」の一つでもあります。尺牘とは、今日の書簡と同様のものです。研究によれば、この書簡の受取人は蘇軾の親しい友人だった杜孟堅だとされています。蘇軾はどのような気持ちでこの手紙をしたためたのでしょうか。その時、蘇軾はどこにいたのでしょうか。書法作品としての芸術的表現をどのように鑑賞するべきでしょうか。本展で蘇軾の作品と解説を合わせてご覧になれば、蘇軾の人物とその芸術について理解を深めていただけるでしょう。

 

詩書双絶

蘇軾「観潮」
廬山煙雨浙江潮、未到千般恨不消。
到得還来別無事、廬山煙雨浙江潮。

文才に恵まれた蘇軾が詠んだ詩文の多くは称賛されて伝誦され、現代にまで伝えられています。この「観潮」という詩は「首尾吟」とも言われ、蘇軾が臨終前に三男の蘇過(1072-1123)に与えた絶筆とも言われています。文字は禅意に富み、大らかさや落ち着きが感じられます。この作品を通して、「致知県朝奉尺牘」を書いた際の達観した姿勢について知ることができるかもしれません。絶筆とは、臨終前の手稿、或いは詩文や書画の最高傑作を指しますが、ここでは前者の意味で作品をご紹介します。

 

宋 蘇軾 致知県朝奉尺牘

  • 国宝
  • 2013年1月文化部により公告

蘇軾(1037-1101)、字は子瞻、号は東坡居士、四川眉山の人。詩文及び書画の大家であり、その書法は黄庭堅(1045-1105)に宋朝随一と讃えられた。

元符3年(1100)、蘇軾は恩赦の詔により京へ戻ることが許され、翌年、金陵(現在の南京市)到着前に「知県朝奉」への返信をしたためた。研究によれば、受取人は杜孟堅(生没年不詳)だとされている。蘇軾と杜孟堅一家4代は家族ぐるみで親しく交際していたため、簡潔な文字に情感が溢れている。間架は左が低く右が高い。用筆は雄健である。現存する墨跡の中で蘇軾の絶筆とされる作品。

 

書法の風格

黄庭堅は「蘇軾は早年に『蘭亭序』を学び、中年期から顔真卿(709-785)と楊凝式(873-954)の書を学ぶようになった。」と述べ、その書を北宋随一と評価しました。「致知県朝奉尺牘」の用筆と間架をよく見ると、晋唐の伝統を継承しているのみならず、「人」と「令」、「愛」の捺筆に見られる「一波三折」の書き方は、北宋の周越(生没年不詳)と関わりがあるように見えます。蘇軾は「筆を下ろせば、周越を彼奴呼ばわりするほどだ」と自称していましたが、この点からも書学の淵源と書芸の変遷が見て取れます。

 

放浪の生涯

元符3年(1100)正月13日、徽宗(1082-1135)の即位に合わせて恩赦が実施されました。蘇軾は皇帝の詔により儋州(現在の儋州市)から京へ戻りましたが、7月28日に常州で病没。一生を通して官界での浮き沈みに翻弄され、漂泊の生涯を送りました。晩年は過去に思いを馳せつつ、「心似已灰之木、身如不繋之舟。問汝平生功業、黄州恵州儋州。」(心はすでに灰の木に似て、身は繋がざる舟の如し。問う、汝が平生の功業、黄州恵州儋州。)と詠んでいます。

展示作品リスト

国宝鑑賞            
年代 作者 作品名 形式 文物統一番号 備考
蘇軾 致知県朝奉尺牘 冊頁 故書000236N000000001 国宝
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